◆@芭蕉の虚と実 A芭蕉とネットの時代◆
俳句は、いくら写生が重視されても、結局人間の心をうたうものなので、現実の世界を取り扱いながらも、その現象的な表面ではない、物の本質を見失ってはならないのである。そのためには、やはり二重性とか二面性とかを考えないわけにはいかない。また、俳句のリズムを間題にするとき、虚像としての時間と実像としての時間の二重性を無視するわけにはいかないのである。
翁の曰ク。「俳−諧といふに。三ッの品あり。寂−莫はその情をいへり。女−色美−肴にあそびて。麁−食のさびをたのしみ。風−流はそのすがたをいへり。綾−羅錦−繍に居て。薦着たる人をわすれず。風−狂は其言−語をいへり。言−語は。虚に居て実をおこなふべし。実に居て。虚にあそぶ事はかたし。此三ッの品は。ひくき人に。高き所をいふにはあらず。高き人の。ひくき所をいふなり」とぞいへる。(本朝文選巻之九)
風狂というのは、風雅(芸術・世間の対立語)をざらに極めたもので、俳諸の言語を指している。つまり、ここにあげた芭蕉の遺語は、虚実を用い、俳諧の言語について語ったものである。俳諧とは、言語を追求していくことでもあり、虚とは、「色即是空」の「空」である。「色即是空」とは、辞書(広辞苑)の言葉をかりると、「色とは有形の万物をいい、これらの万物はすべて因縁の所生で、その本性は実有のものでないから、空である」という意味で、「空即是色」とは、「実体なく空であると見られる万物は、そのまま有形の存在でもある」という意味なのである。したがって、「空」であるとみられる芭蕉の「虚」は、相対的固定的な世界ではなく、絶対的自在の境地をさし、実は、その反対の相対的な差別相をさしているのである。芭蕉が言う「虚に居て実をおこなふ」とは、相対的な世間的な関係を抜け切った自在な境地(虚)に居て、実生活を日常的に過ごし、世間に通用する言語を用いて俳句を作ることであろう。「実に居て虚にあそぶ事はかたし」とは、心が俗世間の関係を断ち切ることができない限り、俳諧の自在な境地にあそぶことは難しいと語っているのであろう。このことは、その後につづく「高き人のひくき所をいふなり」という言葉で、さらにはっきりするのである。これは、芭蕉の有名な言葉「高くこヽろをさとりて俗に帰るべし」と同じことを言っているのであろう。
余の欲する詩はそんな世間的の人情を鼓舞する様なものではない。俗念を放棄して、しばらくでも塵界を離れた心持ちになれる詩である。
ということであり、芭蕉の「虚」は、漱石の「非人情」の境地と同じであり、世間的の人情ではなく、俗念を放棄し、塵界を離れた境地である。「士・農・工・商」というような身分のしがらみから抜け出た解脱の世界である。
(1)
芭蕉の言葉に「不易流行」がある。「風雅の誠」から出たものであるならば、「かわらぬもの」と「かわるもの」とは、根元において一体のものとしてとらえる、というのである。また、芸術の根元にある不変のものは、時代の流行のなかで具体的な作品として顕われる、というのである。
○芭蕉の一句
(2)
芭蕉の言葉に「俗談平話を正す」がある。前回は、「不易流行」とかかわる「高悟帰俗」という芭蕉のの教えを取り上げたが、いずれも「俗」と向かい合う「風雅の誠」などの芭蕉の本質とかかわっている。
○芭蕉の一句
(3)
前々回は、「不易流行」とかかわる「高悟帰俗」という芭蕉の教えに、俳句での「主体性」を学んだ。前回は、「俗談平話を正す」という教えに、現代文学での「日常との関わり」を学んだ。いずれも「世間」と向かい合う芭蕉の本質的な問題で、「風雅の誠」から出たもの である。
(4)
中村草田男の文に「芭蕉と現代」がある。昭和十七年十月の「文芸」に書かれたものだが、六十年の歳月を経た今もなお、輝きを失っていない。昭和初期の良き時代の文学理念があって、ネットの時代に生きる者の学ぶべきところが多く、これを読んで、現代の文芸活動に一活路を見出す契機とすることが出来るであろう。「芭蕉と現代」を締め括って、草田男は、「芭蕉の詩人としての本質」を、
飽くまでも自己の生命を造化の大生命の中に託し、個我を全我たらしめようとした其態度の中にのみ見出されなければならないと思考される。そこにこそ却って芭蕉を現代にも価値づけ得る「日本的」なものが潜んでいるのである。
と述べた。草田男は、芭蕉にあって、「自己の生命」と「造化の大生命」との完全なる融合、個が同時に全となり得たこと、それは永遠の理想であって、成就されることはなかった、とし、さらに、「其域へむかっての芭蕉の只管なる精進のすさまじさは、ひとをして畏怖に近い敬意を抱かさしめずば熄まないものがある。」との思いを抱いた。草田男は、芭蕉に「求道者」の姿を見た。「求道の遍歴」を、「人間修行の成就の過程」を見た。芭蕉は、自然のことを「造化」という言葉で表したが、その求道は、「造化にしたがひ造化にかへれとなり」であり、「此一筋につながり」と続くのである。不確定で、先が見えないと言われる「ネットの時代」に生きる者の学ぶべきことは、この求道の精神であろうと思い、この時代にあってこそ、芭蕉に、そして草田男に学びたいと思う。
芭蕉の晩節の境地を「軽み」とし、「あるべき俳句」は、「軽みの俳句」とした評論家山本健吉と、それに反論し、軽みの一語で芭蕉の晩節を括ろうとする立場に非を唱えた思想的実作者草田男との論争は、俳句の文学性を深めたと言える。健吉は、昭和49年、評論「『軽み』の論―序説」をはじめとし「漂白と思郷と」(昭和52年)「重い俳句と軽い俳句」(昭和52年)「『俳』と『詩』と」(昭和53年)「ウィットといのちと」(昭和53年)などにより軽み論を補強敷衍させていったが、そのことについて、本書の解説は、それが俳壇に「おもくれ」や思想性の軽視の風潮を生む原因となったとする。草田男がもっとも固守したものが盟友山本健吉の「軽み」への反論で、現代俳句が退廃へと進んでいる原因がここにあるのは確かであろう。健吉の意向に沿ってきた現俳句界は、ここにおいて、そのリアクションに出るかどうかに、俳句生命が委ねられているといって差し支えない。実作者の生命のあらん限りを俳句にぶつけた草田男の、飽くなき戦いの姿勢を見ることができる一書である。
草田男の第一句集『長子』をいち早く取り上げ、雑誌特集を成したのは、旧制松山高校俳句会の「星丘」で、「石楠」の川本臥風が指導した。「石楠」を主宰した臼田亜浪は、俳句道即人間道を説いたので、旧制松山高校出身で、「星丘」の校外メンバーでもあった草田男は、「ホトトギス」とは違った「人間探求派」と言われる方向に進んだ。俳壇の中で、草田男に近いのは、川本臥風、篠原梵、西垣脩といった「石楠」の俳人達であり、最も近いのは、歌人の斉藤茂吉である。いずれも詩人であって、知的な求道者であった。「星丘」昭和一二年六月、中村草田男句集『長子』刊行記念号に載った斉藤茂吉の評が勝れている。
此等の句には、『写生』のうちに、『思想』があり、その『思想』も『生』に根ざして清新で、もはや平安朝文学や、唐宋詩人の余唾ではなくなってゐる。ここにおのづから中村氏の人物が出てゐるのではなからうか。
現俳壇の著名な俳人たちの話を聞くのは、嫌だ。自分の世界が矮小化され、自分の存在が薄っぺらなものに思えてくる。芭蕉や草田男が残したものを読むと、「造化の大生命」と一体化される思いに、自分の存在が確かなものに思え、内面の充実感に浸ることができる。
■その一/芭蕉の虚と実■
虚と実は、もともと、無と有、うそとまこと、ということであるが、文芸上では、虚構(フィクション)と事実のことで、「花実」と同じ意味に用いられることもある。花実は、もともと中国の詩論に用いられた語であるが、わが国最初の歌論といわれる古今和歌集の序に取り入れられ、詞(花)と心(実)との繋りを明らかにする。しかし、芭蕉の語り遺したものには、花実の意ではなく、むしろ仏教的な「空・色」の意に解される「虚・実」がある。もちろん般若心経の「色即是空」でいわれる意味である。
こういったことを分かりやすく説明したものに、漱石の「草枕」がある。この小説は、ヨーロッパに対し、日本の良さを弁護するために書かれたものであり、俳句の世界、つまり俳諧精神を解説した小説とみなすことができる。
「草枕」でいう「非人情」とは、すでに序章の「漱石の俳句観」で述べたように
芭蕉の「実をおこなふ」とは、漱石の『草枕』の言葉をかりるならば、十七字という軽便な詩型を用いて、日常生活のなかで容易に作句することである。解脱の境地で、日常生活をおこない、日常的な言葉を使うことである。芭蕉の遺語に「俳諧は平話を用ゆ」とある。平話は、当時和歌連歌で使っていた詩的な言葉ではなく、日常的な言葉のことである。俳諧は、俗な言葉を使用したのである。ただ一方で、「俳諧の益は俗語を正す也。」といっているので、芭蕉の俳譜は、決して低俗な日常語ではなく、磨き正された俗語を用いたのである。これは、実(リアル)の世界にいる新聞記者の心がけねばならないことと同じであろう。新聞記事の文章は、三つのC、つまり、Correct(正確)、Clear(平易)、Concise(簡潔)の三点を特に注意しないといけないといわれる。この三点は、作句の場合でも同じである。俳句が、十七字音定型という短詩型文学であることにもよるのである。短く簡潔であるために、平易であり、かつ正確でなくてはならないのである。芭蕉のいう「平話」を用い、「俗語」を正ざなければならない。また、このことが俳句にリアリティをもたらしてくれるのである。「虚に居て実をおこなふ」というのは、仏教の「色即是空」の論理に支えられている俳句のリアリティの間題に帰着するであろう。
■その二/芭蕉とネットの時代■
ネットの時代の芭蕉をいきいきと捉えるには、「不易流行」の理念がいい。そして、近代の先駆者として生きた芭蕉に、個の世界の確立を読み取るならば、そこに、「風雅の誠」から出た「不易流行」がある。芭蕉の世界に「流行」を、ネットの時代に「不易」を見ようというのである。
芭蕉は、発句に個の命を与えた。「奥の細道」に見る、連歌からの離脱であり、それは、芭蕉の漂白の心に通じるものがある。集団からの離脱であり、近代の先駆者としての芭蕉の個の確立である。
インターネットの時代は、その情報の洪水によって、個の存在が危ういのだが、その中でこそ、個の存在を確かめることが可能となる。
かって、産業革命という言葉があり、IT革命という言葉があった。二〇〇一年に岩波書店から出版された、西垣通氏の「IT革命」によれば、IT革命とは、「文明史的な事件なのだ。何よりそれは「単方向のマスメディアから、双方向のネットワーク・メディアへ」という、地球規模のメディアビッグバンに伴う生活革命である。われわれの欲望・価値観・思考方向なども音を立てて変容していく。だからこそ、産業革命に匹敵する”革命”」なのである。この生活革命は、情報の一方的な流れではなく、インターネットなどの双方向への情報の流れを推し進める。その結果として、情報過多、情報の洪水という事態を招くが、これは、人間文化の多様性でもあって、特に危惧すべきことではなく、文化本来の姿でもある。情報過多、多様性ということは、裏返せば、個の尊重ということで、個人の尊重が文化の多様性をもたらし、情報過多ともなる。
二〇〇一年十一月のユネスコ憲章記念日に先立つ総会では、「文化の多様性」を尊重する宣言が採択され、この「多様性」こそが人類の共有財産であることがうたわれた。川本臥風先生によれば、「文化において大切な事は画一性ではなくて、多様性である。」とし、カーライルの言葉を引用して、「世界の富とは、世界の持つ独創的な人間を指しているのであって、その存在、活動によって初めて世界は世界であり混沌でなくなって来る。」のである。多様性と個の尊重は、切り離すことのできない関係にあって、多様なネットの世界での個の尊重、個の確立が重要な課題となる。
芸術や文学の分野では、個性が重んじられ、独創的なものを育て上げていくのが本筋だが、独創的だといわれるものには、問題が多く、俳句では、独創性というよりも、主体性を問題にすべきであろう。俳句は、形式が簡単なので、オリジナル性を問うことは無理で、主体性が大切である。
ネットの時代は、主体性が問われていて、ネットの情報過多と多様性が主体性を求めているのだが、この主体性は、俳句が求めるものと同じなので、インターネット上での俳句は、これを増幅するに違いない。インターネットの俳句は、主体性確立の格好の場であって、そこで独自の世界を展開するのである。
俳句の世界の大方が単に俗であって、ネットの世界の大方が単に俗あって、主体性を語るには、程遠いものだが、芭蕉の言葉を思い起こすといい。
高くこころをさとりて俗に帰るべし
松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ、
虚に居て実をおこなふべし。実に居て。虚にあそぶ事はかたし。
芭蕉の「高悟帰俗」の教えであり、「造花随順」の教えである。すべては、「風雅の誠」から出たものである。高い主体性を確立せんと志すならば、ネットの「俗」に帰り、俳句の「俗」に帰るのがよい。
京都の寺院が文化財の保存復元にITを利用するという。従来の方法では、あまりにも時間とコストがかかり過ぎるからだという。芭蕉の俳句も同じで、ネットの時代のIT(情報技術)は、その保存継承にいい効果をあげることであろう。
閑さや岩にしみいる蝉の声
俗を離れた静寂の境地。 これほど物の本源深くを詠んだ 句は芭蕉以前にも以後にもないであろう。
支考が書き記したと言われ、芭蕉の言葉を伝えている『二十五箇条』には、「はいかいは何のためにする事ぞや」いう問いに、「俗談平話をたゞさむがためなり」という芭蕉の答えがあり、土芳の「三冊子」には、「俳諧の益は俗語を正す也。」とある。芭蕉の俳譜は、平話を用い、平話を正したのであって、平話は、当時和歌連歌で使っていた詩的な言葉ではなく、日常的な言葉のことである。芭蕉の俳諧は、俗な言葉を使用した。芭蕉は、俗な言葉をただし、俗な言葉を使用したのである。それは、詩語といったものではないが、決して低俗な日常語ではなく、磨き正され、鍛え上げた日常の俗語なのである。
ネットの時代は、俗な時代で、ネットでは、俗な言葉が横行し、正さなければならないものである。ネット上の俳句も俗な言葉が横行し、正さなければならないが、切れ字や季語といった俳句の技術的な用語の問題ではない。専門的な言葉のことではなく、日常生活で使う言葉の問題なのである。日常語を正す、ということは、優れた日常語を使って俳句を書き残すということである。ネットの掲示板での書き込みは、日本語が混乱している。読み手の関心を引かんがための乱れである。可笑しな文章が人の目を引くという誘惑に駆られた乱れである。日本語の文章になっていない文章が面白いといって喜ばれる。絵文字も多くの問題がある。また、文章の終わりに「笑」と書き、「笑」を強要するが、最悪といってよい。文章そのものからの「笑」でなければ、それは、文章の破壊であるといってよいであろう。ネット上の俳句は、芭蕉の教えを守って、現代の日常語を正さなければならない。
ヨーロッパでは、ギリシャのホメロス、イタリアのダンテ、イギリスのシェイクスピア、ドイツのゲーテを生んで、文学や芸術の花が開いたが、ゲーテの死をもって芸術時代の終わりとすることがある。現代は、芸術や文学がすでに終わっているという考えで、これは、これで一つの考えであり、少なくとも、芸術や文学が根底から変わってしまった、ということは確かであろう。文学がどのように変わったか、が問題であり、文学をどのように変えるか、が問題なのである。
現代文学では、日常との関わりがどうあるか、によって、その評価に大きな違いが生じる。評価が全く違ったものとなるのである。俳句の世界では、山本健吉の「軽み」に見みられるように、日常との関わりの希薄な俳句が主流で、言葉遊びの俳句も日常との関わりが希薄である。日常との関わりには、二通りのものがある。一つは、時代との対決である。政治経済上での諸問題との対決であり、国際問題との対決もある。もう一つは、生活の中での自分自身との対決であり、自分自身の内面の問題である。俳句は、本来、自分自身の内面の問題であって、私たちの水煙の俳句もそうである。俳句が自分自身の内面の問題であるならば、自分自身の内面の本当の姿を見極めることが大切である。自分自身の本当の姿を責め悟るのである。これは、芭蕉の「風雅の誠」であって、芭蕉の言葉を借りるならば、「つめに風雅の誠を責悟りて、今なすところの俳諧にかえるべし」(三冊子)ということである。芭蕉の「風雅」は、俳諧・俳句のことで、「誠」は、ま(真)こと(事・言)のことで、「うそでないこと。真実。ほんとう。」といった意味である。芭蕉の「風雅の誠」は、俳句のほんとうのこと、と理解してよい。芭蕉の「誠を責める」という「ほんとうのこと」とは、穎原退蔵の「物心一如の境」、栗山理一の「内なる情と外なる物との一元化」と深く関わっているもので、仏教で言う「色即是空」のことでもあろう。『俳諧問答』に残された芭蕉の言葉は、「その本一なり。一なるは、ともに風雅のまことをとれば也。」である。
芭蕉の「俗談平話を正す」ということは、俳句作家にとって、日常との関わりがどうあるべきか、を教えてくれる。「ほんとうのこと」とは、「一なる」もので、俳句を生活や自然の営みと切り離してはならないのであり、そのことによって、俳句という文学は、現代社会において力を得ることであろうと思う。
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
芭蕉最後の吟として知られるが、死に臨んで悟り澄ました境地でなく、人間らしい感情がなまなましく伝わってくる。旅のこころは、一所不住である。詩人のこころもまた、一つところにとどまらずに、新しい生命を求めて心の旅を続ける。
「風雅」は、もともと中国の『詩経』から来た言葉で、詩文の意に使われ、高邁な詩精神の意があったが、日本では、やがて、詩歌・芸道の全てをいい、現代の「芸術」と同義語となった。芭蕉が俳諧のことを「風雅」といったのは、和歌・連歌と同じ地位に高める意図があったと見られる。俳諧の俗を脱し、出世間的なところに意味を持たせた。「予が風雅は夏炉・冬扇のごとし。衆にさからひて用ゐる所なし」といった芭蕉の出世間的な志は、「風雅の誠を責め悟りて今なすところの俳諧に帰るべし」と語って、「風雅」という俳諧文学の本質に迫った。
「誠」は、「まこと」と読むが、「まこと」は、『古今集』の序以来、日本の歌論俳論の重要な用語となった。古代には、「真言」とも書き、近世になって、「誠」の字を当てることが多くなった。花実論や虚実論の「実」も「まこと」と読む。「真実」の字を当てることも ある。「まこと」は、『広辞苑』によれば、「うそでないこと、ほんとう」の意である。
芭蕉の「風雅の誠」という「ほんとうのこと」とは、どういうことであろうか。鬼貫の「誠の外に俳諧無し」があり、臼田亜浪の「まこと」がある。芭蕉の「誠」がこれらと同じだという考えもあり、異なるものだという考えもある。芭蕉の「誠」を理解するには、「ほんとうのこと」とは、「一なる」ものである、というところから出発するのがよい。『俳諧問答』に残された芭蕉の言葉によれば、「その本一なり。一なるは、ともに風雅のまことをとれば也。」とある。「ほんとうのこと」とは、その本質的なところで、「一つ」なのである。穎原退蔵のいう「物心一如の境」、栗山理一のいう「内なる情と外なる物との一元化」といったところで、仏教で言う「色即是空」のことでもあろう。相反するものも、その本質では、もともとは、「一つ」なのである。
芭蕉は、「予が風雅は夏炉・冬扇のごとし。衆にさからひて用ゐる所なし」と言い切ったが、一方では、「俗談平話を正す」という考えがあって、「世間」との関わりを全く否定したわけではない。この矛盾すると思われるところを理解するには、
高くこころをさとりて俗に帰るべし
虚に居て実をおこなふべし。実に居て。虚にあそぶ事はかたし。
という芭蕉の言葉がある。「高悟」と「帰俗」とがどう関わって「一つ」となるか。「虚」と「実」とがどう関わっているのか。そこの理解が問題なのである。「高くこころをさとりて俗に帰るべし」は、内面に深く、高いところがあって、行動は、浅く、低く世俗的なところに留まるのである。「虚に居て実をおこなふべし。実に居て。虚にあそぶ事はかたし。」での「虚」と「実」は、仏教で言う「空即是色」の「空」と「色」に置き換えてみるとよい。「色即是空」とは、辞書(広辞苑)の言葉をかりると、「色とは有形の万物をいい、これらの万物はすべて因縁の所生で、その本性は実有のものでないから、空である」という意味で、「空即是色」とは、「実体なく空であると見られる万物は、そのまま有形の存在でもある」という意味なのである。したがって、「空」であるとみられる芭蕉の「虚」は、相対的固定的な世界ではなく、絶対的自在の境地をさし、実は、その反対の相対的な差別相をさしているのである。芭蕉が言う「虚に居て実をおこなふ」とは、相対的な世間的な関係を抜け切った自在な境地(虚)に居て、実生活を日常的に過ごし、世間に通用する言語を用いて俳句を作ることであろう。「実に居て虚にあそぶ事はかたし」とは、心が俗世間の関係を断ち切ることができない限り、俳諧の自在な境地にあそぶことは難しいと語っているのであろう。このことは、「高くこころをさとりて俗に帰るべし」と同じことなのである。「高悟」と「帰俗」とが「一つ」になった境地、「虚」と「実」とが「一つ」になった境地、それを芭蕉は、「風雅の誠」と言った。
ネットの時代は、俗な時代で、ネットでは、俗な言葉が横行する。ネットの時代にあって、芭蕉の「風雅の誠」は、輝きを取り戻すであろう。「一つ」なる「ほんとうのこと」を責め悟るならば、俗な時代に浸っていてはならないし、超俗的な世界に逃げ込んでもならない。芭蕉に近い心境にあったのは、子規や虚子ではなく、中村草田男である。一つなる真実を求めて突き進んだのが草田男なのである。昭和十一年刊の第一句集「長子」に
冬の水一枝の影も欺かず
が収録されている。「一枝の影も欺かず」というのは、「冬の水」であって、草田男が見た
「冬の水」は、その皮相なるものではなく、その実相であり、移ろい行くものの中にあって、変わらぬもの、その本質である。「冬の水」に「虚」と「実」とが「一つ」になった世界を見て、「一つ」なる「ほんとうのこと」を責め悟るのである。「冬の水」は、写生でもなく、虚構でもない。真実である。これが「風雅の誠」であって、一つなる真実を求めた草田男の心境に打たれる。
中村草田男と対極にあったのが山本健吉で、二人を別けたのは、健吉の「軽み」論である。研究史上「かるみ」を最初に問題にしたのは、中村俊定の「芭蕉晩年の風調『かるみ』に就て」(『国文学研究』七、昭11・7)であり、山本健吉は、昭和四九年から五二年にかけての『すばる』に「軽みの論」を書き、その後の著作で、「軽み」を芭蕉の生き方・人生論にかかわる最高の「境地」だったと説いた。健吉の「軽み」論は、時流に乗って、現俳壇の指導者としての地位を確立したが、実作者で、国文学者の草田男は、俳壇という時流の外にいて、健吉の「軽み」論への反論を繰り返した。平成十四年八月に刊行された中村草田男著『俳句と人生』講演集にその反論が収録されていて、高橋正子の書評によれば、こうである。
リンク