忘れ得ぬ人々 「臼田亜浪」

川本臥風

 

私が初めて臼田亜浪先生と、その俳句結社「石楠」のことを聞いたのは、先輩藤田山夢さんを通してであった。私はすぐその新鮮な句風が好きになり、大正八年、京都三高在学中に投句し始めた。初めて先生から旅だよりをいただいた時

朝涼しわが家の萩の一つ花

という句が添えられていて、強い印象を受けたことを覚えている。

京大在学中、東京で司法官試補をしていた藤田山夢さんをたずね、代々木の亜浪先生のところへ連れていってもらった。これが、私が先生にお目にかかった最初であったが、先生は四十代の中ごろ、石楠創刊後、日まだ浅く、その基礎確立に努力しておられたころである。そんなところへ、金ボタンの私が出現したので、先生はよほどうれしく思ってくださったらしく、さっそく東京在住の石楠誌友を集めて歓迎会を開いてくださった。後に石楠の幹部になった人たちもまだ若く、痛飲りんり、意気けんこうとして先生を取り巻いたが、先生はその中心になって、信州人独特の、鼻っ柱の強いところを見せられた。がその裏に、お弟子たちを思う、細かい心づかいもすぐ見てとれた。先生の奥様すて夫人にもお目にかかったが、石楠の猛者連中が、慈母のごとく仰いだ人である。

私は大正十二年に大学を出るとすぐ、旧制松山高等学校に赴任した。英語の林原耒井先生のご在職で、いっしょに松高句会を始めた。この句会から出た篠原梵、八木絵馬の二人は、東京に遊学するとすぐに亜浪先生に近づき、ずいぶん先生からかわいがられたようであるが、私はその後、あまり先生にお目にかかる機会がなかった。

私が最も先生に接触したのは、昭和四年、先生の松山ご来遊の時であった。先生五十歳、ちょうど油の乗り切った時代で、その前の年には満鮮の大旅行があり、翌五年には山陰、北陸を旅行され、席あたたまるひまもなく各地を巡歴して、「大石楠」を築きあげられつつあったのである。この、昭和四年の四国、九州旅行の途中、松山へは、五月八日に着かれ、十一日夕方高浜から船で門司へむかわれたのであった。

私はその年の春、ドイツから帰って新居を営んだばかりの時で、どんなにしてお迎えしたらよいかちょっと困ったのであるが、幸いに判事の藤本丘炎さん、かをりさん夫妻が近所に住んでおられ、万事相談することができた。

温泉へおともして、先生の背中をお流しする機会もあった。湯から上がると先生は体操をされた。

それは両足を開いて立ち、上体を左右にまわし、両手が遠心力でべたりべたりと肩や腰をたたく妙な体操だった。

懸念していた句会も非常に盛会であった。道後鮒屋の大広間を会場とし、新聞広告によって地方の俳人が大ぜい集まった。句会最後の先生の批評は、新興石楠を背負って立つ人の気迫に満ちたものであり、石楠の誌友はみな非常にたのもしい気持ちになった。

その気迫をさらに痛感したのは先生を北条鹿島へご案内した時だった。この日は、まるで初夏を代表したような日で、円すい形の島は楠の大木でおおわれ、その若葉が緑玉のように潮の上に盛り上がっていた。無数の春ゼミの鳴きこもり、島全体が春ゼミの合唱で、まるで、共鳴鐘のように鳴り響いていた。私たちはまず小舟でこの島を一めぐりしたが、その時先生は

春蝉の声引潮の音もなく

の句をお作りになった。それから鹿島明神の社前に上陸し、急な傾斜を島の頂上まで登って行った。私は一行の後ろからついて行きながら、したたるような新緑の中に旅人亜浪の姿をしみじみ見つめたのであった。各地を旅行して植物の事にくわしい先生はこの島で「珍しい羊歯」を見つけられ、手ずから折り取ってあとから東京へ送るように、とのことだった。このシダは中野のお家に根をおろし、昭和二十六年私が、先生逝去の数日前におたずねした時もその話をされ、私の句集の序文にもそれを書いてくださった。毎年それがもえ出るたびに、先生はあの鹿島の一日を思い出されたことであろう。

やがて、私たちは、土地の風早吟社の人たちのお客となり、その中の一人が脇にかかえていた、三尺に一尺くらいもありそうな厚い板が先生の前にすえられた。この地方は昔から俳句の盛んな所で、一茶が来遊した時も脚をとどめており、近くには虚子先生の生家もあり、また風光も明媚なので、ここを通り過ぎる俳人はたいていこの鹿島に遊び、その人たちが皆同じ大きさの板に句を揮毫し、それがこの鹿島明神に奉納されて拝殿にかけ並べられているのである。今度はそれが先生の順番にまわってきた、というわけであった。

先生の気迫を感じたのはこの時のことである。先生は句帳を私にお示しになって、どれがよかろうかとご相談があった。私は咄嗟に、奉納として適当だろうと判断して、さきの「春蝉の声」の句をおすすめし、先生はすぐにそれに同意された。大きな筆にたっぷりと墨をふくませて、先生のあの雄渾な字を「春蝉の」と書き進められた。そして次の瞬間、実に目にもとまらぬ速さで「声」の字が出来上がった。その筆力のはげしさに、見ている人たちはみんなどぎもを抜かれてしまった。そしてやがて一句全体が墨痕りんりと見事に書き上がったのである。

この扁額は今も鹿島明神の拝殿にあがっていることと思う。

(愛媛新聞 昭和四二年七月二三日)