川本臥風の俳句 秀句とその鑑賞
雲雀しばらくあるく我等の行く先を 野の道を楽しく話しながら連れ立ってゆくと、珍しくあるいている 雲雀に出会った。雲雀は人に恐れることもなく、我等の前を野道を 案内するようにしばらく歩いた。しばらく雲雀と同行した春野辺の 楽しさ、無垢の雲雀に触れた喜びが詠まれている。無垢といえばイ ギリスの詩人ウィリアム・ブレイクの「無垢の歌」がすぐ思い出さ れる。 (高橋正子)
半面に紅刷きふきのとうの球みどり 静かな観照の中にも、きらりと光る感覚的な把握がある。黄みどり の球のようにころりとした蕗のとうの半面が、刷かれたような紅で あって、その色彩の美しさには、透明感と抒情がある。句会の折な どに臥風山房に伺うと、はやばやと出た蕗のとうがテーブルに置か れていることがよくあった。誰かが、野の様に鉢植えにしたものが 置かれていたり、ころりと転がされていたり、蕗のとうを愛でてお られた。 (高橋正子)
鉢に土筆数本にして野のさまを 土筆が出ましたよ、と野の草や苔など一緒に鉢植えにして持ってこ られたものだろうが、数本の土筆に野の風景が彷彿されるというの だ。「数本にして」に強い驚きがある。季節の植物がほんのわずか であっても、大自然の景色をなすという凄さは、季節季節のものは 、ディーテイルでありながら、自然を象徴することを意味している 。臥風山房を出ればすぐ小川や野道があったが、土筆をわざわざ摘 みに出かれられることもなかったから、こうした鉢植えを楽しんで おられた。 (高橋正子)
桜昏しはげしき天の白光に 満開の桜は、天の白光によって、昏い陰影を持つようになった。光 が差して物に陰影ができたのだ。桜の色を昏くさせるほどに強い光 に、仏の現れを感じ取ることができる。鋭い感性が詠んだ桜の句。 (高橋正子)
きらりきらりつばなが草を抽きはじむ つばなは、白茅(ちがや)の花穂のことで、比較的丈が低く、野辺 の少し荒れた土にはどもにでもある。若い穂は、かつては子どもた ちが抜いて食べていた。春も半ばになると、野辺の草からつばなの 花穂が伸びてくる。きらりきらりと、つばなの一穂、一穂が、春風 に揺れて輝いている。つばなの小さな穂は、芒とはまた趣が違って 、詩情を呼ぶ。目の隅にきらりきらりと輝くものの姿が留められて いる。 (高橋正子)
蝶飛べりむかしの時間かもしれず
若葉蔭砂動かして水湧ける 第一句集『樹心』所収。師亜浪は、この句を評して、「観照の態度 が素直」と言った。若葉蔭の泉の水が、静かに砂を動かして湧いて いる。若葉があり、砂があり、水があり、と抒情ゆたかな句である が、静かな心のあり方は、中間に介在をいれない科学者の目にも通 じるように思われる。 (高橋正子)
アカシヤの白く大きな花に降られ
鮎匂い鮎の山河を恋いわたる 鮎は生まれた川の水の匂いをたどって上ってくるという。その生態 をあますところなく十七字にまとめた臥風先生の代表句。豊かな水 と緑したたる山河は日本の夏のいよいよの始まり。 (高橋正子)
われに傾ぐ大きな蓮の葉の無疵 動きの静かで、存在の大きな句である。すべてを包み込んで安らぎ を与えてくれる。 (高橋信之)
てんとう虫の背が割れ空へ一直線 てんとう虫が飛び立つところを捉えているが、そこに静かな観照が ある。観照というのは、自分の体や心、周囲に起こってくる物事、 善悪や好悪の判断を持ち込まずにあるがままに観るということなの だが、この句には、この姿勢がある。てんとう虫の背が割れて空へ 一直線に飛び立つこと以外に意味はないのである。つまり、これこ そが本来の自分を観ることになっているのである。空(くう)とか 無の境地をもって作られた俳句と言えよう。てんとう虫が飛び立つ 空が、夏であっても、いかにも涼しそうである。(高橋正子)
向日葵をゴッホはしづかな色に描きし
花ござの藺の香芬々たる上に
抹茶のみどり白い夏のものにしみつき
数本の唐黍も秋のささやきを 作者の眼に触れ、身辺の事物がやさしい。内面の慎ましい世界で、 野心がない。 (高橋信之)
すわるより先に秋空きらりとある 秋空の深いところを逃さずに、その一瞬を捉えた作者の眼がいい。 感覚的に「きらりと」である。 (高橋信之)
摘まれゆく松の匂ひの松をつゝみ 松の手入れは、丁寧に鋏を入れて、時間をかけてされるので、松を 摘み進んでゆくと、松の匂いが松の樹を包んで、すがすがしい匂い の樹となる。その匂いはあたりにも広がって、傍にいるものにも、 すがすがしさを与えてくれるが、そのときすでに作者は、松の匂い に同化しすがすがしい融通無碍の心境となっている。(高橋正子)
稲みのらすぬくさの中に我も立つ 晴天の日に、稔田の傍に立つと、稔田のぬくみが体に直に伝わって くるのを感る。稔田に溜まった太陽のぬくみなのであろう。稲を稔 らすのための必要な温度であって、その同じ温度に自分の体がある という不思議さ。ほのかなぬくみにいる存在の尊さを知らされる。 (高橋正子)
かけ稲の穂先しづかにそろひけり 刈取られた稲は、乾かすために稲架に掛けられる。ずっしりと実っ た稲は、穂先を揃えて稲架に垂れ下がる。その稲籾の重みの集まる 穂先が揃って揺れもせずしづかなのである。穂先が揃うところに作 者の神経の集中と緊張がある。しづかでありながら神経は張り詰め 、高い次元に心が置かれているのである。「観照が素直である」と 言っただけでは収まらないものがある。 (高橋正子)
すだちのしまったかたまりが内に酢を
安らいてみのりの秋にとりまかれ
柿の実の中より光りさすごとし 私たちが日頃見ているのは、現象界の表面にすぎないが、物の本源 は、そこを通してしか捉えることが出来ない。色即是空である。 (高橋信之)
亜浪先生逝去 この冬空の下のどこにも先生亡し 俳句の短い形式の中にあって、内面の深い悲しみが溢れ出て、読み 手に訴えてくる。単なる感情的な悲しみではない。本当の詩情を見 る。臼田亜浪は、昭和26年11月11日に逝去、東京中野の宝仙 寺に葬られているが、出生地は、長野小諸で、明治12年2月1日 生まれである。 (高橋信之)
大き落葉すこしづつ地を吹かれ進む 大きな落葉は、プラタナスなどの葉であろうか。風が吹く度に、そ の位置を少しずつずらして動いていく。「吹かれ進む」の「進む」 は、大きな落葉に意思を見た表現。吹かれる落葉の行方をしばらく は見ている静かな観照態度は、、他方において鋭い観察眼であると もいえる。 (高橋正子)
バスこみあう中猟銃の長き直線 「バスこみあう中」のリアルであり、そして、猟銃の「長き直線」 に詩情がある。俳句が現代の詩であることの証となる一句である。 (高橋信之)
広告塔かけのぼる冬至の夜空 冬至の夜空は、早く暮れてすでに真っ暗である。その夜空に ネオンサインの広告塔がある。漸次点灯するネオンなので、 光が夜空へかけのぼっているように見える。冬至という一年 で最も昼間が短い特別な日の夜空であるので、漆黒の夜空に 点る広告塔が生きもののようである。 (高橋正子)
堪へてゐる冷えと歯痛とひとつになる 暖房が今ほどではないころは、冬の寒さは耐えがたい。しん しんと冷えてくる日など、歯痛が始まると、それをどう治め ることもなく、だたひたすら耐えることに終始する。部屋に 広がる冷えと歯痛とが、分かちがたい感覚として体にとらえ られている。臥風にしてのみあることだろう。(高橋正子)
初明りしたまいて慈母観音像 「初明り」という美しい言葉で新年の清らかさを教えてくれてい ます。また「寒清し床に白磁の観世音」という句もあって臥風先生 の心の向かう先が念仏の世界で、これは先生の身ほとりにある世界 のことでした。 (高橋正子)
中庭へ深く落ち来て雪積もる 空間は区切れば、深くなることもできる。中庭に見えぬ空より雪が届 く。静けさの極みに、積もる雪音だけが聞こえている。(高橋正子)
のし餅の紅切るたびに新鮮に
カナリヤはずむ七草粥を食い居れば
寒浄し床に白磁の観世音
石が涸れ松垂れかかり寂光土
母なる大地ここは雪の下に
わが一本の桜も小さき花ふぶき
青空へまぎれてしまう落花もあり