中村草田男第一句集 「長子」30句 ■昭和11年20日沙羅書店発行■
夕櫻城の石崖裾濃なる そら豆の花の黒き目数知れず 花圃いまも水栓漏るゝ音ばかり 松山城北高石崖にて 町空のつばくらめのみ新しや 鶯のけはひ興りて鳴きにけり ひた急ぐ犬に会ひけり木の芽道 大学生おほかた貧し雁帰る 校塔に鳩多き日や卒業す 乙鳥はまぶしき鳥となりにけり 筍の鋒(きつさき)高し星生る 田を植ゑるしづかな音へ出でにけり 蟾蜍長子家去る由もなし *瑰(はまなす)や今も沖には未来あり 香水の香ぞ鉄壁をなせりける 思ひ出も金魚の水も蒼を帯びぬ 秋の航一大紺円盤の中 秋霖のドアを閉ざして出る男 霧の中鉄のひゞきの鍛冶屋の火 雁渡る菓子と煙草を買ひに出て 北海道旅中 鴨渡る鍵も小さき旅カバン 其虫の鳴くとき夜風立つかにも 蜻蛉行くうしろ姿の大きさよ 露けさや頭大きな馬柵(ませ)の杭 冬の水一枝の影も欺かず 冬空をいま青く塗る画家羨(とも)し 白き息はきつゝこちら振返る 昃りたるところへ冬日射してくる 図書室留守番 書を読むや冷たき鍵を文鎮に あたゝかき十一月もすみにけり 降る雪や明治は遠くなりにけり