俳句について語るということよりも、実際に俳句を作ることのほうが、なか なか面白いと思っていますので、今日のハイク・シンポジウムは、正直のところ 少々気が重いというのが私の本音なのです。私に与えられています課題は、ハイ クとは何か、という概念について語ることですが、少々気が重いということで、 そこを軽く、私の個人的な体験を交えながら話を進めることにお許しいただきた いと願っております。 外国の英語やドイツ語のハイクに私が関わりを持ちまし てから、二十数年が経過致しましたが、そのハイクに表現されています「風景」 に興味を持ち続けてきました。その風景と、作り手である「私」との関わり方に 関心を持ち続けてきました。高浜虚子は、昭和十一年のヨーロッパ訪問を回想し 、フランスのハイク詩が「景色を詠ずることを忘れていた。」と言っていますが 、虚子のいう「景色」は、私が取り上げました「風景」、つまり< Landschaft>の ことで、虚子もまた俳句における <Landschaft>の大切さに触れております。なお 、風景論につきましては、筑波大学の滝内槙雄先生が確かな業績を持っておられ ますので、後程、お教えいただきたいと願っております。美術史家、Alois Riegl や Hein-lich W・lfflin の研究について、お教えいただきたいと願っておりま す。美術に関するドイツの学問の確かさは、日本の風景画家の第一人者である東 山魁夷が、ヨーロッパ留学に、ドイツの大学を選んだことでもお解りいたたける ものと思います。 一昨年のフランクフルトでの <Buchmesse>は、「日本年」と いうことで、その行事の一つとしての「日独ハイク-Treffen」が、10月に開催 され、それなりの成果を得ました。この「ハイク-Treffen」で推賞されました俳 句は、ドイツの<ハイク>の一つの水準を示しているものと判断して差し支えな いと思いますので、先ずその句を御紹介致します。お手元にお持ちいただきまし た黄金色の資料をご覧下さい。50ページをお開き下さい。作者のBuerschaper さんは、ドイツ俳句協会の会長をなさっています。この句は、ハイクの形式であ る5-7-5音節の三行でうまく纏めています。ドイツのハイクのほとんどがこの 5-7-5-Form をかたく守っており、アメリカの英語ハイクが形式を崩していますので、ひど く対照的で、このことでもって、英語ハイクで著名な佐藤和夫氏が、「ドイツ人 の規律を重んずる性格が反映しているのかも知れない。」などと言っております が、この問題は、主に英語とドイツ語という言語の違いから起こってきたものと 思われます。文学作品上での問題は、ドイツ人論や日本人論にもっていかずに、 作品そのものから、作品の言葉そのものから離れてしまわないように論ずべきも のだと考えています。季語・季題は、ドイツに歳時記がないこともあって、俳句 実作や作品解釈では主要な課題になっておりません。それに代わるものとして自 然の事物や風景との関わり方に高い関心を示しています。 Buer- schaperさんの 句の<Motte>は、蛾という意味ですが、季語・季題としての働きをしているわ けではなく、<蛾>という自然と作者との関わり方にこの句の主題があります。 では、53ページをお開き下さい。Anneloreさんの <goldne Kornfeld>の句を お読み下さい。この句は、ドイツのハイクの秀句の一つであると、私はみていま すが、その判断の基準がどこにあるのか、これは、なかなか厄介な課題といえま す。「基準」というものは、当然のこととして客観的なものでなければならない と思いますが、私の選句の判断は、いつも私の好み、私の主観によってなされて いますので、厳密な意味での「基準」が私にはない、という妙なことになります 。そこで、選句上の判断の基準 <Kriterium>をめぐって、その周辺を明らかにした いと思います。 54ページをお開き下さい。ページの下の方にありますJohanna さんの<Blatt um Blatt>の句をお読み下さい。
Blatt um Blatt f、llt ab, doch der Baum steht aufrecht da. Er wartet getrost.
この句の原句は、5-7-5 形式を厳密に守っていますが、最後の一行<Er wartet getrost.>が説明的で物の本質から少しずれていると思われますので、その行を 切り捨てて改作しますと、
Blatt um Blatt f、llt ab, doch der Baum steht aufrecht da.
となります。この「切り捨て」は<kヲrzen>ということですが、この句を<kurz>にす ることによって、句の <Stil>が引き締まって的を得た<treffsicher>なものになりま す。作り手の「私」が少し控え目になって、「冬の木」の本質へ迫っていくこと ができるのです。冬の「風景」が前面に出てまいります。ハイクは、「短い」の で、説明的、抒情的なものを容れる余地がなく、それだけに、本質的なものに迫 っていくことができるという利点があります。 では、53ページに戻って、 <goldne Kornfeld>の句を再度お読み下さい。
Ins goldne Kornfeld friァt sich die M、hmaschine Streifen um Streifen.
この句のどこに、その良さがあるのか、少し説明致します。昨年の夏、フラ ンクフルトに参りまして、そこのハイク詩人達と私の俳句仲間とで「ハイク-Treffen 」を持ちましたが、Anneloreさんの句は、そのときのもので、そこの指導者の Walzock さんと私とが、この句を「最も良い」句として推奨致しました。 Walzock さんの評では、「湖に映る月といったようなありきたりの <abgedroschen>な表現 ではなく、新しい見方<neues sehen>」で、刈取り機<M、hmaschine>、刈取った後の筋<Streifen um Streifen> といった情景がありありと目に浮かんでくると言っていました。 晩夏の雰囲気<Sp、tsommeratmosph、re>、収穫の季節の美しい雰囲気のあるハイクだ といって高く評価しました。この句の良さは、何といっても、季節感あふれる風 景が鮮明に生き生きと表現されているところにあると言えます。この句の構成、 その言語の構造について私なりに少し説明しますと、句の冒頭に置かれた前置詞 と冠詞の <Ins>は、風景の位置、その空間をまず明確に設定し、揺るぎのないもの にしています。Akkusativの<s>は、この風景にうまく「動き」を入れています。名 詞の<goldne Kornfeld>「熟れ麦」の前に<Ins>が置かれている第一行は、私の日本語 訳では、「熟れ麦を」となり、<Ins> の意味の「を」が名詞の「熟れ麦」の後にき て、ドイツ語の原句とは、その位置関係が逆になっております。前置詞と冠詞を 名詞の前に置くというドイツ語の文法をうまく生かすことができましたので、表 現された風景が実に鮮明です。「熟れ麦を」という私のありきたりの<abgedroschen> な日本語訳と比べると原句の<Stil>が「的を得た」<treffsicher> なものであるこ とに気付いていただけると思います。第一行の母音<o>と第二行、第三行の子音<s>と の音の対比も実に効果的で、ハイクの中の風景を鮮明にしています。第一行の母 音 <o>は、明るく広々とした、それでいて落ち着きのある風景を表現し、そこへ刈 取り機が第二行の子音 <s>でもって切り込んできています。第三行の<Streifen um Streifen> のリズムは、取り入れの快い心の弾みを表現しています。第二行と第三行との 間の切れも、ハイク的で、その切れでもって、「筋また筋」といった取り入れの 風景をうまく浮き上がらせ、一句が収まっております。 この句を丁寧に読 めば、ハイクが単なる自然賛美や写生ではないとの理解を得ていただけるものと 思います。ハイクは、風景との出会い、風景との対話の中から生まれます。現実 の風景が作り手の心に働きかけてくることによって始めて、ハイクの表現となり ます。それは、素朴な生の感動であり、生の確認でもあります。ハイクは、作り 手の「私」を表現するものでもなく、新しい「私」を創造することでもありませ ん。現実の風景との出会いの中で自分の存在を確かめるということです。ハイク では、風景が前面に出てきて、作り手の素顔は見えてまいりません。つまり、作 り手の心の内容といったものではなく、心の形式、心の「姿」といったものを読 み取らなければなりません。それは、言葉のリズム、言葉の構造、言葉の<Stil>と いったところに現われてくるもので、言葉を離れては見えてきません。 自分 の存在の確認、これは、ハイクの問題として、季語、季題、それに写生、即興の 問題とも深く関わっていますが、嘱目発想、俳句発想としての「嘱目」をさらに 明らかにしなければならないと思います。「嘱目」といえば、即興的に目にふれ たものを詠むという意味で、あくまでも遠心的発想法なのですが、この発想法を 取ろうとするのは、求心的すぎる性格があっての上で、つまり、自分の存在の確 認という求心的な性格があってのことだと言わなければなりません。「こころを せめる」という芭蕉の言葉も、このことを言ったものだと思われます。「こころ をせめる」ことなしに、嘱目発想はありえないというのが、俳句発想の根本性格 であろうと思われます。 では、資料の62ページをお開き下さい。このペー ジのハイクは、すべて嘱目のハイクで、一昨年の夏にフランクフルトに行きまし て、そこのハイク詩人達とガーデンパーティーをいたしましたときのものです。 その時の風景が余すところなく表現されています。ドイツの夏の夕べの風景です 。<schwヲl> な昼から<kヲhl>な夜へと移って行く時刻の風景です。ハイクの仲間達、 その<Gesellschaft> の<angenehm>な様子、池には、<Seerose> 睡蓮が花開き、夜へ向 かって花びらを閉じようとしています。<Libelle> がきて、静かな風景を作ってく れました。<Libelle> は、日本の蜻蛉とは少し違うトンボです。すももの木が、家 の白い壁にその影を投げ掛けています。私がドイツに連れていきました私の小さ い子供達も、その風景の中に取り込まれています。すべてが穏やかな風景ですが 、その中で、それぞれのハイク詩人達が、それぞれの在り方で、自分の存在を確 認しているに違いありません。芭蕉の「こころをせめる」ところまでは到達して いませんが、この嘱目発想のハイクで、自分が生きていることを確認する喜びを 味わっているに違いありません。ハイクという文学は、こうした生の確認なしに は成り立つ筈がないと私は考えております。ハイクを読むという行為は、こうし た作者の心の「姿」を、決して心の概念的な「内容」といったものではない、こ の心の「姿」を読み取らないことには、成り立たないものだと考えております。 黄金色の資料の共同執筆者であるフランクフルトの Karlheinz Walzock さんは、ここで、ハイクの<geistige Haltung>について語っていますが、この考え は、漱石研究の結果であって、禅や写生とも関わりがあります。<geistige Haltung> この精神的姿勢は、漱石の「余裕」のことでもあり、これもまた、心の概念的な 「内容」といったものではなく、心の心境的な「姿」のことを言っているものと 思われます。資料のもう一人の執筆者である森孝明さんは、ハイクが<humoristisch> であることを、メーリケの詩との比較によって明らかにしてくれました。「滑稽 」「諧謔」といった日本の俳諧の伝統がドイツ語ではどうなるのか、明らかにし てくれましたので、そこのところを、後程、お教えいただければと願っておりま す。そのことによって、ハイクとは何か、という私の課題をさらに深めてゆくこ とができます。ドイツでは、俳句と川柳との違いがはっきりしておりませんので 、そこのところを、わかりやすく理解することが出来るものと願っております。 最後に、ドイツ語ハイクの日本語訳について少し触れてみたいと思います。 日本語訳を色々集めていますが、その一部を資料の二冊に分けて御紹介いたしま した。原句が良いものは、翻訳しても、それなりの良さを伝えることが出来ます 。というのは、良い翻訳が出来るということが原句の良さを証明していることに もなります。これも、ハイクの判断基準 <Kriterium>の一つだと、私は思っており ます。なお、ここのところは、理論言語学や一般言語学をなさっておられる研究 者の方からのご意見を、是非お聞きしたいと願っております。