俳句による国際交流

高橋信之

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国際交流1

 私にとっての国際交流は、言葉通りの「私にとっての国際交流」で、つまり私の個人的な体験ということなので、国際交流はこうあるべきだ、という話ではなく、私と私の家族との、そして私の俳句仲間との「国際交流」をこのように致しました、という個人的体験の報告にすぎない。
 私の住まいは、郊外の砥部町にあって、この砥部町は、昔は松山藩ではなく、大洲藩の領地であった。この大洲出身で江戸末期から明治にかけて活躍した三瀬諸淵という凄い人物がいるが、世にあまり知られていない。長崎にきたドイツ人医師シーボルトの通訳として活躍した。、特にシーボルト二度目の来日は幕府の政治顧問であったので、その通訳として三瀬諸淵は江戸の町を大手を振って闊歩した。ところが諸淵は商家の出身にも拘らず医者の面目として大小の刀を腰に差していたので、それを各められて逮捕、江戸の牢獄に入れられてしまう。大洲藩には力がなかったので、隣の宇和島藩によって諸淵は救い出され、後に宇和島藩に抱えられシーボルトの孫娘高子と結婚している。旧大洲藩の文化圏からは大江健三郎というノーベル賞作家が出て、こちらは大変世界的に有名になったが三瀬諸淵は大江に並ぷ傑物といってよい。シーボルトをめぐる国際交流、これが日本国内のことであっても、一つの「国際交流」であることには違いない。
 愛媛では東の今治からも凄い人物が出ている。ここは昔今治藩といって明治維新で最後の今治藩主となった久松定弘、厳密に言うと、最後の藩主の養子ということですが、久松定弘は、日本とドイッとの文化交流史に誰よりも初めにその名前が出でいる。森鴎外などより以前にドイツヘ留学、ドイツの文学や演劇を日本に紹介した。貴重な著書を残しているが、久松定弘は民間のレベルでの留学で、社会主義の理論も深く学んで掃国したので、日本では広く受け入れられなかったようで、残念なことである。
 松山藩からも多くの傑物が出ている。漱石の友人であった子規は昨今の俳句ブームでとても有名になったが、子規の少年時代からの友人、三並良と秋山真之を忘れてはならない。子規が上京したのは、これからは英語の時代との認識からで、英語の勉強のためだが、彼の周りには三並や秋山といった語学の天才がいたので、国文学や俳句に力を入れたものと思われる。三並は東大教養部の前身の一高のドイツ語教授で、日本でのドイツ語通訳の第一人者であったという。後に愛媛大学の前身の松山高校の教頭として郷里に赴任した。子規の幼友達ということで俳句も達者で、松山高校俳句会の雑誌「星丘」(川本臥風発行)にも句を残している。秋山真之は松山藩の貧乏士族の子であったので、東大へは行けずに学費の要らない海軍兵学校へ進学した。明治の初めの海軍用語には日本語がなく、教科書も軍艦の内部も、軍を動かす号令もすべてが英語で、話し言葉まで英語が使われていたので、誰もが語学力をつけていた 。そのなかでも秋山はトップにいたので、アメリカとイギリスヘ二年間の留学をさせてもらっている。この時期にアメリカとスペインとの戦争があって、秋山真之は、キューバのカリブ海での戦いをアメリカ軍の輸送船に乗船して観戦している。これは、1898年(明治31年)のアメリカ・イスパニア戦争のことである。それから七年後の1905年(明治38年)の日露戦争での秋山の活躍には目を見張るものがある。日本海海戦での勝利は連合艦隊の参謀としての秋山に負うところが大きいと言われている。カリブ海での海戦と瀬戸内海の村上水軍の戦法が合わせて力になったとのことである。日本海海戦が今まさに始まろうとする報せの電報「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出動、これを撃滅せんとす。という電報文、これは東郷平八郎司令長官の命令によるものだが、これに、秋山は「本日天気晴朗なれども波高し」という名文を付け加えている。これこそ俳句そのものといってよいかと思う。「天気晴朗なれども波高し」という文は、五・七・五の定型からは確かに外れているが、格調高いリズムがあり、俳句の季語はないが、その場の風景を的確に捉え、作者の今現在の心境を十二分に吐露しているという点で見事に俳句文学となっている。「波高し」と表現したところは、戦さの前の周囲の烈しい動きを、また「天気晴朗」と表現したところは、参謀秋山真之の沈着冷静な様子を今もなお生き生きと伝えてくれる。戦争という烈しさのなかでの文学、この静けさが秋山真之の真骨頂だと言える。私にとっての「国際交流」は、国際交流という烈しさのなかでの俳句であって、秋山真之に多くを学んだ。 秋山真之は、司馬遼太郎の長編小説「坂の上の雲」にも詳しく、また三瀬諸淵は、藤森成吉の長編小説「若き洋学者」(日新書院・昭和17年3月7日発行)に詳しく正確に書かれている。
 わたしが俳句を作り始めたのは、1964年(昭和39年)で、既にドイツ語の教師になっていた。学生時代には小説を書いていて、当時大江健三郎が芥川賞受賞の学生作家として文壇にデビューしたので、ひどく刺激的であった。大江は、わたしの育った新谷の隣村の大瀬出身ということで、特にわたしにとっては刺激的で、初期の作品から大江文学を丁寧に読んで、論文もいくつか書いた。わたしにとっての俳句は、当初から俳句一筋の俳人とは違った、学者文人の俳句で、あくまでも文学に限ってのことだが、日本語の俳句以外の文学活動にも関心をもった。外国語の俳句を作って、外国の俳句詩人達との付き合い、「俳句による国際交流」も、わたしの文学活動のひとつにすぎない。
 英語やドイツ語の俳句を作り始めて、外国の俳句雑誌や日本の学会誌に掲載したのは、1968年(昭和43年)で、三十年ほど昔の話である。外国語の俳句に関心をもつようになったのは、それより三年前の1965年で、アメリカの雑誌「タイム」に掲載されていた英語のオリジナル俳句を見た。1969年(昭和44年5月8日)には、アメリカの大学の講義で私の俳句が W.J.Higginsonによって紹介された。


 Scarlet neon

on the cold, white wall:

cross of hospital.


 この英訳の原句は「緋のネオン十字冷たく自壁に」という日本語で、「日本の多くの現代俳句がしているように、色彩と意味との激しい出会いに焦点を絞り込んでおります。」という解釈が付いた。ヒギンソンさんの「俳句ハンドブック」(The Haiku Handbook)は、外国語の俳句での最も重要な書物で、この本に「国際俳句」という頁があって、わたしが編集に関わっていた「いたどり」が紹介されている。海外の俳句に注目し、それをリードしている日本の俳句コミュニティーとして紹介されている、松山のわたし達の俳句雑誌は、外国の俳句グルーブと最初に国際交流をした日本の俳句作家グルーブである、ということになる。俳句の国際交流といえば、1936年(昭和11年)の高浜虚子のヨーロッパ訪問以来、日本の俳人達の交流があるが、それと違うところは、学者や通訳等の仲介者を、出来るかぎり中に入れないということで、日本の俳句作りと外国の俳句作りとが直接語り合って、あまり上手でもない外国語を使っての国際交流、様々な外国語、多言語での多様な国際交流なのである。こうして、「俳句による国際交流」は、わたし達のグルーブによって三十年前に始められた。
 1970年(昭和45年)には、ジョージア南大学の教授ジョン・ウィルズ(John.W.Wills)博士が俳句研究のために松山のわたしの許にきた。その頃、わたし達は「ハイク・スポットライト(HAIKU SPOTLIGHT)」という定期刊行物を出して、主として英語圏の俳句詩人達と交流していたが、その俳句仲間の一人がウィルズさんで、カナダのアーマン博士とアメリカのヒギンソンさんもスポットライトの俳句仲間であった。ウィルズさんとの句会は、テレビでも放映されたが、愛媛大学の紛争によって中断された。


国際交流2

 俳句の国際交流でドイツヘは、三回行ってきた。1990年(平成2年)7月には家族揃って、これは、フランクフルト俳句会からの招待によるもので、同じ年の10月にはフランクフルト書籍見本市での日独俳句大会に、翌年の8月にはわたし達の俳句雑誌「水煙」第100号記念行事の一環としてドイツの俳句詩人達と交流をしてきた。フランクフルト俳句会からの家族招待は、当初わたし達夫婦だけであったが、二人のこども達も加えていただいた。小学生のこども達も加えて家族ぐるみの国際交流は、日本人あるいは日本文化にとって、とても大事なことだと思っている。日本文化は、特に俳句はそうなだが、日常生活と深く結びついているので、俳句の作り手といった、いわゆる文化の担い手の日常生活を解っていただかないと、日本文化の理解はとても無理なのである。松山での俳句仲間とのお付き合いは、わたしの家族ぐるみなので、それをそのまま、ドイツに持っていってお見せしようと考え、達者な英語やドイツ語で喋りまくるよりも、そのほうが日本の理解には効果があるのではないか、と判断した。以下はドイツの新聞からの引用文である。


 短詩芸術

 フランクフルト俳句会に日本がらお客〔フランクフルト・アム・マイン発)

 「春風とともにパン屋の角曲がる」この俳句 −俳句は、日本にしか広まっていない短詩形式− と、さらに他の数句を高橋信之教授が本人自身で、聴衆にむかって朗読した。独日協会と日本総領事館の肝煎りで設立されたフラングフルト俳句会にとって、この朗読が、ヴェステント市民会館で開かれた夏期俳句集会のグライマックスとなった。
 日本から同教授が出席するのは「めったにない機会」と同俳句会の指導者力−ルハインッ・ワルッォク博士が説期した。同博上にとって高橋氏は、日本に数多くある俳句諸派の一流派の指導者であるだけではなく、俳句の個人的な師匠でもある。したがって、ワルツォック氏を指導者とする俳句会の仕事も、この伝統のながに位置づけられるのである。
 高橋氏は、家族を連れて数日前にドイツに来ていた。同氏は、フランクフルトで俳句活動のさがんなグルーブと出会えたことを喜び、「広く知られる日本の短詩のファンが当地にもいらっしやるのは、すばらしいことです」と述べた。
 高橋氏は、1931年生まれで、松山市にある愛媛大学の独語独文学教授である。俳句詩人としての氏は、俳句雑誌『いたどり』の主宰者で1982年に死去した用本臥風の門下生であった。1983年に氏ば、主宰雑誌「水煙」を創刊した。
 日本人にとって俳句は、日常生活の一部となっている。「日本では、大学教授だろうが電車の車掌だろうが、ピジネスマンだろうが主婦だろうが、誰でも俳句を詠みます。子どもでさえ、俳句芸術の勉強をしています」とワルツォック氏は説明した。これを即座に証明したのが、六歳の句美子ちゃんと十歳の元くんである。ふたりは、両親の高橋夫妻と一緒にこの集会にやってきていたのだが、記念として出席者に自分で作った句を書きしるしたのである。
 ワルツォック氏がさらに続けて説明してくれたように、この種の詩では、単に韻律をまもることだけが問題なのではない。俳句の三行のなかでまた、つねに今現在の季節との関係づけもしなければならないのである。俳句とは、決められた制約のなかで、観察結果を再現するものなのであるが、それにはときに、隠された意味が含まれることもある。この隠された意味は、読者(あるいは聞き手)が提示されている観察結果から自分で推論しなければならないのである。
 日本の師匠高橋氏と共同してワルッォク氏は −俳句集会でば恒例のことだが− 出席者から提出された俳句を論評した。最後にはさらに、フランクフルト書籍見本市について話があった。今回の見本市の中心テーマは日本となる予定である。その際、この俳句グループは、高橋教授と再会することになろう。教授は、この書籍見本市に出席する予定の俳句の大家のひとりだからである。フうンクフルト俳句会も、この公開の場で、自分たちの会を紹介したいと述べている。(こ「フランクフルター・ルントシャウ」1990年8月23日(木)付


 これは、ワルツォックさんの説明が記事になったもので、ワルツォックさんは、今はフランクフルト俳句会の指導者だが、以前愛媛大学でドイツ語を教えていたので、かつての同僚である。そのご縁から俳句仲間となったわけで、わたし達の「水煙」に俳句を寄せていただいている。
 フランクフルト書籍見本市での日独俳句大会については、1990年(平成2年)12月4日の朝日新開で詳しく紹介された。この大会には、日本の三大俳句協会の会長始め、多くの著名な俳人も参加したが、わたしの名前もこの朝日に紹介されている。これは、これら著名な俳人の俳句をドイツ語に翻訳したからで、ドイツ語から日本語への翻訳はワルツォックさんが担当した。こうした俳句の国際交流は、英語圏を含めても初めてのことで、そのときの俳句の翻訳の殆どを愛媛大学の関係者で仕上げたことを、少々誇りに思っている。この大会の前日の10月3日に東西ドイッが統一したので、そこに居合わせた者の一人として貴重な体験をさせてもらった。
 わたし達の「水煙」第100号記念行事の一環としての国際交流は、愛媛新間記者新名英司氏が同行したので、第一面に色刷りで、三度にわたって紹介された。一つは、ワルツォックさん主宰のフランクフルト翠葉句会との交流で、ワルツォックさんは、俳句は「形式よりも内容を尊重」すべきだと、主張した。ワルツォックさんは、五−七−五といった俳句の形式よりも、漱石文学にある余裕といった態度を俳句に求めた。俳句は短いので、形式ではどうにもならず、内面に深さと広がりを求めなければならないのは当然のことである。国際交流には先ず外国語、それも英語が必要だと思いがちだが、いくら英語が達者であっても、それには限界があって、外国語にあまり拘らずにいた方が案外、心が通じ合うのである。これは、形式や言葉をまったく否定するものではない。ケルンでは、ドイツ俳句協会会長のブーアシャーパーさんとの交流があったが、この前年に、松山での国際俳句大会で、わたしはブーアシャーパーさんとお話をする機会があったし、フランクフルトの日独俳句大会でもお会いしていたので、ケルンでは、三度目の国際俳句交流となった。松山と姉妹都市提携を結んでいますフライブルクでは、マリオ・フィテェラーさんの俳句伸間との交流があった。フィテェラーさんはかつてドイツ俳句協会の副会長をなさっていた実力者である。
 わたしの「俳句による国際交流」は、家族という最も規模の小さい俳句仲間によるものから俳句雑誌という典型的な俳句仲間によるもの、そしで三大俳句協会という最も規模の大きい組織に至るまでの様々な形で致してきたが、その中でもやはり、家族ぐるみでの国際交流が最も成果があったのではないかと、過去を振り返っている。
 ドイツでの体験でもっとも感動的であったのは、わたしの日本語俳句の朗読で、日本語のまったく解らないドイッ人を前にしての朗読は、随分躊躇したが、朗読を終えたときの盛大な拍手は、今もはっきりと耳に残っている。あの感動は、わたしの六十五年の人生のなかでの最大なものの一つとなった。長年、文学をやっているが、その殆どが「文字の世界で、研究室や書斎に寵もっての、書物と原稿用紙との「音」のない世界であった。わたしの国際交流のなかでの文学は、「文字」の世界に、「音」の世界が加わったのである。国際交流のキーワードの一つは、「音」であろうと考えている。
 俳句は、日本の伝統文学の歴史のなかで、長歌から短歌、そして俳句へと、言葉を限りなぐ削って、「音」のない世界ヘ、「無」へ向かって進んできた。鎖国時代の松尾芭蕉がその極地に達したものと思われる。開国時代から国際化の時代となった現代の俳句は、大きな転換期を迎えている。「昔」のない世界から「音」のある世界へと向かっている。国際交流での俳句、外国語の俳句は、「音」なしでは語ることはできない。日本語俳句から外国語への翻訳で、わたしが最も気を使うのは、言葉の音であり、言葉のリズムなのである。外国語のオリジナル俳句でも同じで、言葉の「音」の世界を読み取ることに気を使っている。
 小学一年になったばかりのわたしの娘をドイツに連れていったが、フランクフルトの女子学生に可愛がってもらった。日本語を知らないドイッの女子学生は娘に向かってドイツ語を捲くしたて、わたしの娘もそれに負けずに、ドイツ語がさっぱり解らないので、日本語をしきりに喋りまくっていた。それでも二人は理解し合うことができ、仲良くデパートを彼らだけの一時間を楽しんできた。これも、国際交流での「音」の世界の不思議な魅力といってよいかと思う。
 わたしの「俳句による国際交流」は、三十年に及ぶものだが、そのなかでの成果と言えば、次のドイツ人によるドイツ語の俳句を得たことである。

 Ins goldne Kornfeld
 frisst sich die Maehmaschine
 Streifen um Streifen.         Annelore Stamm

 熟れ麦を刈機の食める筋また筋      高橋信之訳

 私がドイツの風土の中で作った日本語の俳句、これでもって私の話を終わりとするが、それをご披露させていただく。

 氷菓食べ歩く異国と思わずに(フランクフルト)
 白ワインの白が秋の近づく光に(フライブルク)

 中国での俳句交流は、北京大学と大連外国語大学でした。中国の人達は、日中友好協会のトップで、公的な持て成しを受けたが、わたしの中国訪間は、私的な資格でまいったので、そのギャップがあって少々疲れた。
英語やドイツ語に比べて、中国語の発音が難しいということを知らされたのは、中国から松山への国際電話をかけたときのことである。少年時代を中国で育ったので、少しの中国語を喋ることができるが、数字のゼロがなかなか通じなくて弱った。それでも万里の長城では、中国語を話して、中国人になりすますことができた。これも、国際交流での「音」の世界の不思議な魅力だと思っている。
 さて、わたしの話は、「俳句による国際交流」というテーマだが、実は「国際交流による俳句」というのがよろしいのではないか、つまり、「国際交流によって育つ俳句」というわけである。以前、アメリカ俳句協会会長であったヒギンソンさんは松山でお会いしたこともあるが、愛媛新間の求めに答えた四年前の記事を読むと、国際交流がこれからの日本の俳句を育ててくれるものと、期待が持てるのである。もちろん、それには息長く取り組むことが大切であろう。
 国際交流で得たものは、二百年ほど昔のゲーテの世界文学の理念にも通じている。それは、「一国民の内部に支配している差異が、その他の国民の見解と判断によって調整される」ということなのである。


 私にとっての国際交流は、言葉通りの「私にとっての国際交流」で、つまり私の個人的な体験ということなので、国際交流はこうあるべきだ、という話ではなく、私と私の家族との、そして私の俳句仲間との「国際交流」をこのように致しました、という個人的体験の報告にすぎない。


ドイツの風土と季感

 ドイツの国は、正しく言えばドイツ連邦共和国のことであるが、ドイツ文化 を語る場合は、いわゆるドイツ語圏文化ということで、オーストリア、スイスの 文化・文学をも含むと考えた方がよく、これらの国は、中央ヨーロッパにある。 日本と同じ北半球に位置するが、やや北よりである。西はフランス、オランダ、 南はイタリア、東はポーランド、北はデンマーク等の諸国に接しているので、古 くから国家間の紛争に巻き込まれることが多く、回廊の運命といわれている。  

 国境の駅の両替遅日かな(独蘭国境)          高浜虚子                 
 ドイツの国家(ライヒ)成立は、オットー大帝による神聖ローマ帝国の創設 (九六二年)まで待たねばならないが、それ以前のゲルマン民族諸部族の動向は 、ローマの史家タキトゥスの『ゲルマニア』によって知ることができる。中央ヨ ーロッパに居住し、粗野であるが部族の結束が固く戦闘能力をもっていた。この 諸部族のなかに「ドイツ」という意識が発生したのは、八世紀末ごろとみられる 。フランク王国のカール大帝の時代で、この時期にドイツ語で書かれたドイツ文 学が興った。「ドイツ」、ドイツ語では deutschというが、語源的には「民族の 」という意味で、ローマのラテン文明や他に対して自らの「民族」を自覚し始め て生まれた言葉である。こういったところからもドイツ文化が中央を指向するも のではなく、地方に、地域に根ざしたものと見てよいであろう。俳句の季語が江 戸時代の中央集権社会によって作りあげられたものなので、季語がドイツ語で育 っていないのも、ドイツのこういった地方分権の意識によるものと思われる。日 本では、北海道と沖縄のひどく異なった自然と風土が一つの季語で括られてしま うが、ドイツでは、北ドイツと南ドイツの自然と風土の違いを季語で括ってしま うことは難しい。北の北海やバルト海と南のドイツアルプスとを括ってしまうこ とはドイツ人にはできない。  

 キャベツとる遠くオランダの風車(ラインラント)    山口青邨  
 川見居るふるさと遠き秋の風(エルベ川)        川本臥風 

 ドイツ文学史の上で二つの頂点がある。その一つは『ニーベルンゲンの歌』 で代表される十二、十三世紀の「英雄叙事詩」であり、これは「民族叙事詩」と もいわれ、ドイツ民族の歴史的苦闘と哀歓をうたいあげ、ドイツ民族の心の故郷 といわれている。他の一つは十八世紀から十九世紀への変わり目ごろのドイツ古 典主義の文学である。これはゲーテとシラーを中心にしたもので、その多くが日 本にも紹介されている。 「英雄叙事詩」の時代の抒情詩として「ミンネ・ザン グ」といわれる恋愛詩があり、ワルター・フォン・デル・フォーゲルワイデの『 菩提樹の下で』が最も有名である。春の野での愛を歌う少女のことばには、春の 野の風物が美しく描かれているが、これは、ゲーテの『五月の歌』を思い起させ るものがある。愛のことばと絡み合いながらも、春の野の風物が美しく描かれて いる。『菩提樹の下で』では、「ナイチンゲール」が、『五月の歌』では、「雲 雀」がドイツの春を象徴する風景となっている。若者の愛と自然の風物との交歓 、これは詩人の自然のままの真実であって、この二大詩人がまったく同じところ へと心を向けているのに驚く。ゲーテの『五月の歌』はこうである。       

 なんと素晴らしい 
 自然のひかり。 
 太陽は輝き 
 野は笑う。  

 花ばなは 
 枝より噴き 
 いく千の声は 
 茂みより湧き上がる。  

 ほとばしる 
 よろこび この歓喜。 
 おお地よ 太陽よ、 
 幸福よ 希望よ、  

 おお愛よ 愛よ。 
 黄金なすその美しさ、 
 峰にかかる 
 あの朝空の雲に似て、  

 おんみは晴れやかに祝福する、 
 生命湧く野を、 
 花にけぶる 
 みちみちた世界を  

 おお少女よ 少女よ、 
 ぼくは君を愛する! 
 君の眼はなんと輝くことか! 
 君はぼくを愛する!  

 そのように愛する、 
 雲雀は歌と高みを、 
 朝の花ばなは 
 空の香りを、  

 そしてぼくは君を、 
 湧きたぎる血で。 
 青春と喜びと 
 勇気とを、  

 新しい歌と舞踏とを、 
 ぼくにあたえてくれる君! 
 永遠に幸福であれ 
 君の愛とともに。

 この詩は、自然と詩人の心がうまく一体となっており、その点、ヨーロッパ の抒情詩のなかでは稀な存在だといえるが、自然に対する「心の態度」をみると 、やはり日本の俳人たちのそれとは違う。  

 雲雀より上にやすらふ峠かな              松尾芭蕉

 ゲーテの「雲雀」は、愛の高まりの比喩として、空へと向かう晴れやかなも のとなっているが、芭蕉の句には、現実容認の静かな観照がみられる。人間が、 「雲雀」より上の高みで静かな安らぎを求めている。ヨーロッパでは、自然がう たわれるとき、向上への憧れをあらわす現実打開の象徴となっており、日本では 、現実容認である自然との一体感を表すものとなっている。「現実打開」と「現 実容認」とのこうした違いは、自然に対する「心の態度」の違いから生じたもの と理解してよい。ドイツは、日本と同じ北半球に位置するので、日本と同じよう に春夏秋冬の四季があり、ロマン派はもちろんのこと、多くのドイツ抒情詩人が 四季をうたうが、ただ自然と風土のつくりだす四季折々の風景が異なり、なによ りもその風景に触れる詩人の「心の態度」がドイツと日本では違う。「四季」そ のものよりも「心の態度」、これがドイツ抒情詩から日本俳句を大きく隔ててい るところのものである。  

 黄楊から出る蛾のよろめきつつ  この夜息絶え、知ることもなかろう   春でなかったのを。                 R・M・リルケ

 この詩は、ドイツの世界的な詩人リルケが作った「ハイカイ」という題のド イツ語俳句で、「心の態度」が日本の俳句の場合とはまた別であるというものの 、自然と風景、それに季節を短い三行のなかで充分にうたい上げている。ドイツ の自然と風土のなかから生まれた詩であることに間違いない。 リルケの詩には 、季節を詠んだものがかなりある。なかでも『秋の日』、『秋のおわり』、『秋 』といった一連の詩がよく知られている。ホーフマンスタールの『早春』も近代 名詩として知られ、早春の風物をういういしい感性でうたい上げる。春の季節そ のものを詠んだものにメーリケの『春だ』がある。ドイツの春・秋は、日本のそ れと比べると短い。夏から冬へと一気に駆け抜けてしまう短い秋、秋のすぐそこ には冬がいて、長い冬には春を誰もが憧れ待つ。ドイツの四季は、日本と違って 春夏秋冬が同じ重みをもつものではない。 ドイツの自然は、南がアルプスに遮 られ、北に北海とバルト海が広がる。そのなかを父なるラインと母なるドナウが 流れる。ドイツは森と川の国といってよい。ロマン派をはじめ多くの詩人達が美 しく歌いあげてきた森であり、川である。そこには決まって季節がある。  

 〈春〉 
 アルプスの小王国の桜冷(リヒテンシュタイン)     浅野なみ   

 〈夏〉 
 川風に夏逝く中にいて吹かれ(ライン川)        脇坂公司  

 〈秋〉 
 爽やかや朝の野を鹿跳んでをり(シュワルツワルト)   岡 茂子  

 〈冬〉 
 少年のヨーデル雪に谺せり(グリンデルワルト)     赤尾恵以

 「爽やか」という季語がドイツの秋を表わし得るかどうか、多くの疑問を残 している。ドイツの真夏は、朝がとても涼しく、吹く風の爽やかさに日本の秋を 思う。ドイツの秋は短く、季節に爽やかさを感じることはあまりない。  

 塔ひとつ見えて吹雪の村過ぎぬ(リューベック付近)   坂手美保子

 「吹雪」は俳句の季語であって、ドイツの冬をも遺憾なく表現し、その象徴 となり得ている。この句を得て「吹雪」という日本の季語は、ドイツの自然を象 徴することができたとみてよいであろう。「塔ひとつ見えて村過ぎぬ」という風 景は、紛れもなくドイツで、この言葉でもって、この句の「吹雪」は、ドイツの 自然であることがわかる。「月」、「花」といった季語は、「雪」とは違ってド イツの季節を象徴するには、無理がある。「月」を秋だけに限ってしまうことも 、「花」を桜の花に限ってしまうことも、ドイツではおそらく無理だと思われる 。
 書に耽り故国の霧の濃さ浮かぶ(ハノーファー)    K・ワルツォック
 松山にいて故国のハノーファーを想う句で、フランクフルトで伊予の松山を 詠んだ「蜜柑剥いて香を嗅ぎ込めば伊予遠し」と対をなしている。「霧」、「蜜 柑」という日本の季語がドイツでも通用するという例句である。ドイツの霧を詠 んだ日本語の俳句が意外に多いが、海辺の町フーズムが詩の舞台となっているシ ュトルムの『町』は、季節感あふれる霧を詠んで北ドイツの自然と風土を表現す る。『十月の歌』は、「霧立ちのぼって 木の葉落ちる時」の一行から始まって 「霧」は、秋を強く印象づける言葉となる。  

 スイスは朝の青さ張り泉湧く(ツン湖畔)        有働 亨

 森には泉があり、町の中心には泉の噴水があって、ドイツを象徴する。中央 ヨーロッパのスイス、オーストリアもまた同じ風景である。  

 カスターニエの青き実曇天よりもげば(ベルリン)    高橋正子

 「カスターニエ」は俳句の季語とはなっていないが、ドイツの風景を作りだ しているものの一つであり、実は、食べることの出来るものと出来ないものとが ある。くり、とち、あるいはマロニエといったところか。この句は、ドイツの風 土に相応しい言葉を使って季感あふれる風景を詠むことに成功した。「青き実」 は、夏である。海外で俳句を詠むとき、季題、季語、季感といったところを深く 再吟味することなしに安易に使用したならば、その句は、ドイツの自然と風土か ら遠く離れてしまう。   

 熟れ麦を刈り機の食める筋また筋(フランクフルト郊外) A・シュタム  高橋信之訳                             

 この句の良さは、ありきたりの花鳥諷詠といったものではなく、季節感あふ れる生活風景を鮮明に生き生きと表現したところにある。このことは、その原句 のドイツ語を読めば、はっきりするであろう。句の冒頭に前置詞《in》を置くこ とによって、空間の位置、すなわち「熟れ麦」の田園風景を鮮明に浮き上がらせ 、その一行目から二行目の動詞に向かって求心的な力が働く。さらに《s, ァ》な どの歯擦音が「刈り機」の唸る田園風景を生き生きと表現する。季は晩夏であり 、刈取り機や刈り取った後の筋といった情景がありありと目に浮かんでくる。こ れがドイツの風景であり、これがドイツの俳句であろう。言葉そのものに季節感 があり、一句の全体に季節感があって俳句となりえたのである。   


世界歳時記

 世界大歳時記(角川書店)が平成七年(1995)四月七日に発刊された。日本の 俳句史にとっての画期的な書となるであろう。ここに、新しい俳句の方向は示さ れている。季題・季語・季感の問題が自由律俳句や前衛俳句とは違った角度から 新に問われているからである。地球の自転と公転が止まることのない限りは、地 球上のどこでも、昼夜の一日と季の移りゆく一年が決まってあり、地球上のどこ でも俳句が生まれ、作られているが、季節や昼夜に関する地球の裏側との共時性 はない。世界の言語と文化を統べる機関がない。世界大歳時記は、季の問題を新 たな角度から問い質した画期的な俳句の書である。以下に紹介する句は、日本語 俳句の海外詠で、この書に採録されたものである。旅の懐かしい風物を描いて印 象の鮮明な句、伝統文化に支えられた生活を詠んで力強い句、どれもが垢抜けて 、どこか洒落ている。そして、これらの俳句を、国際俳句とは言わずに、ゲーテ の世界文学に倣って「世界俳句」と名付けたい。   

 イタリア・フランス・イギリス編                   

 夏の句 ベネチャのゴンドラ揺れる夏夕焼(イタリア)        松下三寿美 

 秋の句 ミラノ聖堂鳩どっと翔つ秋日和(イタリア)         岩崎 風女                                   

 ドイツ・オーストリア・スイス編  

 春の句 舟橋を渡れば梨花のコブレンツ(ドイツ)          高浜 虚子
     リラの花をとめは折りて家に入る(ベルリン)        山口 青邨
     国境を踰えてもどらぬ風の蝶(オーストリア)        立原 修志
     チーズ桶洗ひて鳴らす雪解水(スイス)           原 みつを
     牧童の羊追ひゆくポプラの芽(スイス)           林 登喜子
     国境を置きタンポポの野なりけり(スイス)         新田記之子
     花ミモザ揺れて満月降り落とす(スイス)          石 寒太 

 夏の句 氷菓食べ歩く異国と思わずに(フランクフルト)       高橋 信之
     カスターニエの青き実曇天よりもげば(ベルリン)      高橋 正子 
     水買うてをり菩提樹の緑陰に(ドイツ)           水上 孤城 
     夏の日をステンドガラス奪ひ合ふ(ケルン)         辻  文代 
     川風に夏逝く中にいて吹かれ(ライン川)          脇坂 公司
     氷河仰ぐ花束ほどの日だまりに(スイス)          古舘 曹人 
     登山電車ミルク積まるる一座席(スイス)           山下 喜子   

 秋の句 ヨーデルにいよよ月光溢らしむ(ミュンヘン)        四方万里子 

 冬の句 塔ひとつ見えて吹雪の村過ぎぬ(リューベック付近)     坂手美保子 

 アメリカ編

 春の句 春愁のアリゾナの墓碑や真珠湾(ハワイ)          高橋みのる

 中国・韓国・印度編

 春の句 カルカッタ早春街路樹倒れしまま              川本 征矢 

 夏の句 長江へ甘き李の種投げる                  井上 ミツ 

 秋の句 鳳仙花摘みて爪染むソウル女                山本 光代 


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