「魔の山」における中間のイデー


 トーマス・マンは、神話の世界や身辺の出来事から、多様な素材を取リあげてきて、それを組み立てながら長編小説を仕上げている。一つの素材は、他の幾つかの素材と関係をもち、結合され、網の目を張りめぐらすようにして、長編小説を構成する。マンの教養小説である「魔の山」も例外でばなく、多くの素材が複雑戸にからみ合って、アンドレ・ジッドの言う「他に比較するものがない」作品となっているのである。しかしまた、この素材のからみ合いの巧妙さや大小様々のモティーフの相互関係の複雑さは、作品の統一を破壊し、解体し、主題の所在を不可解にしでしまう危険をはらんでいる。無意味な饒舌の連続に、退屈してしまうおそれがある。従って、複雑さの危険を回避し、複雑さに統一と秩序を与える芸術の精神が必要となるのである。それが、中間のパッションであり、中間 りモラールであり、エ−トスである。
 トーマス・マンの小説の技法や作品の形式を支えている中問のイデーは、また作品の内容に関係している重要なイデーである。「魔の山」の主人公が追求しているのは、人間性であり、人間であることの本質を支えている中間のイデーなのである。単純な青年であるハンス・カストルプは、対立し合う二人の教育者、イタリア人で合理主義者のゼテムブリー二と、ユダヤ人でスコラ哲学者のナフタとの中問に身を置いて、どちらに荷担することもなく、市民としての義務感から進んで、魔の山の教育を受けるのである。中世に置いて、神と悪魔が、人間の魂を奪い合ったように、またファウストの物語において、神と悪魔が、練金術士の魂を奪い合ったように、ゼテムブリー二とナフタが、カストルプ青年の魂を奪い合うのである。だが、カストルプは、対立し、論争し合い、決闘の騒ぎまで引き起す二人の間にあって、主体性を失うことがない。魔の山のサナトリウムに封じ込められ、練金術的教育を受けながら、白分の身を両極の中間に置いて、主体性を失わずに、市民としての、人間としての義務感から中間のイデーを追求しているのである。
 ところで、「魔の山」の主人公の単純なカストルプ青年が、中問のイデーを追求した跡をたどると、長編小説の「魔の山」が、ドイツの伝統的な教養小説であって、主人公の教育課程が、更に教育の状況や教育者が、作品を解明する鍵となっていることが分る。「魔の山」が教養小説であるということは、トーマス・マン自身も述べており、周知のことではあるが、第一章の冒頭の文が、より具体的に明示している。「魔の山」の物語は、「ひとりの単純な青年が旅に出た」という文で始まる。物語の主人会が単純な若者であって、教養の旅に出るという二点は、ゲーテのマイスター的な、ドイツの伝統的教養小説の重要なモティーフである。
 トーマス・マンの教養小説は、勿論ゲーテのマイスターとは、異質の内容をもっている。カストルプ青年の旅の目的地は、ゲーテのマイスターとは異質の世界である。カストルプの目的地は、海抜一六〇〇米の魔の山のサナトリウムである。この目的地が、実は、カストルプの教育の舞台であって、たまたま療養中の従兄チームセンを見舞うために、わずか二週間の予定でやってきたのに、七年間も滞在することになる。サナトリウムで、単純なカストルプ青年は、魔の山の練金術という魔法にかけられるのである。魔の山のサナトリウムは、練金術の世界で、マイスターの市民世界とは異質である。カストルプ青年の受けた教育は、練金術的浄化の教育なのである。
 練金術とは、要するに金を作ることで、それには、まずレトルトの密封が必要である。サナトリウムのある魔法の山は、広い世界である低地から遮断されており、練金術のレトルトのように密封されている。海抜一六○○米という高地であるために、空気が、レトルトのように稀薄である。魔の山のサナトリウムに向うカストルプ青年の不安な気持は、空 気の稀薄な高層への密封を暗示している。

ところが、彼はいま、あたりの状況が自分の完全な注意力を要求するような、これはいい加減にしてはおけないというような気持になっていた。これまでまだ一度もその空気を呼吸したことのない高層、他とは完全におもむきの違う、独特に稀薄で乏しい生活条件が支配しているという高層へ、こうして引きあげられてゆくこと──それが彼を興奮させて、その心に一種の不安を満たしはじめた。

 密封されたレトルトのなかでは、物質の腐敗が行われる。自然の失敗作である鉛、銅、鉄などが、解体して金に生れ変るのである。このレト ルトは墓穴に似ており、墓穴では、死者が、腐敗し、解体して天国に昇るのであるが、錬金術のレトルトでは、下級の物質が、腐敗し、解体して金となるのである。このサナトリウムは、また死者の国である地獄の比喩である。
 魔の山のサナトリウムで、一夜をすごしたカストルプ青年は、翌日、合理主義者のゼテムブリーニから、このサナトリウムが、実は、地獄の深みであることを知らされる。

これはしたり、あなたはわたしたちの仲間ではないのですか?健康でいらしって、ここへはただお客としておいでになっただげなのですか、冥府を訪れたオデッセーのように?いや大胆不敵ですね、亡者どもがたわいもなく無意味な暮しをしているこの深みへおりてこられるとは──

 レトルトのように密封されたサナトリウムは、死と病気の世界なのである。サナトリウムは、レトルトのように、死と腐敗の墓穴である。地獄のサナトリウムは、カストルプ青年を病気にしてしまい解体しようとするのである。ところが、一方では、練金術は、要す るに金をつくることで、もう少し学問的にいえば、浄化と向上の原理である。スコラ哲学者のナフタが、カストルプに説明している。

そうです、わかりやすく言えばです。すこし学問的に言えば、浄化であり、物質の転化、醇化であり、化体、それもより高級なものへの化体であって、つまるところ向上なのです。

 従って、練金術における腐敗や死や病気は、あくまでも、浄化や向上のための一条件に、あるい一つの過程にすぎないのである。魔の山のサナトリウムは、単純な青年であるカストルプを病気にするが、教養豊かな天才に目覚めさすのである。

僕はもちろん根っから天才なんかじゃないし、大きな人物ってとこでもありはしない、とんでもないことだよ。しかし僕は偶然にも──偶然にもだよ──この天才的な世界へ高く押しあげられてきたんだ……。要するに、君は知らないだろうが、練金術的=化学的教育法とでもいうようなものがあるんだよ、化体、それも低いものから高いものへの化体、つまり、もっとわかりやすく言えば、高揚ということがあるんだよ。

 日常の世間と絶縁し、密封されてしまうということは、白己の内面の精神界に閉じこもってしまうことで、そうすることによって、哲学的瞑想が病的にまで深くなり、哲学的形而上学的天才に目覚めていくのである。それは、死を通って生へ至る天才の道である。カストルプ青年は、次のような言葉を見付けるのである。

生に至る道はふたつある、ひとつは普通の、まっすぐな、真面目な道。もうひとつはよくない道、死を乗り越えてゆく道だが、これこそ天才的な道なんだ!

 単純なカストルプ青年が、地獄のサナトリウムで、練金術的教育によって得た、死を通って生へ至る天才的な道は、表現をかえると、死と生との中間にある道であって、「魔の山」という教養小説の根本イデーである、中間のイデーに支えられている。この道は、凡庸な生に執着するのでもなく、死の眠りに逃避するものでない。生は、死を通して、新しい生へと克服されるのである。新しい生は、死と生との中間的存在なのである。
 この中間のイデーは、またカストルプ青年を取り囲む、二人の教育者に対する、カストルプ自身の態度をも支えている。対立し合う二人の教育者は、カストルプの魂を奪い合うが、カストルプは、どちらに荷担することもなく、彼らの間に身を置いて、両者の言葉に耳を傾け、二人の教育を受けるのである。対立する両者の緊張のなかに身を置く、この中間的態度は、やがて、彼らの本体が何であるかを見抜いてしまうのである。スコラ哲学者のナフタと合理主義者のゼテムブリーニに鋭い批判の言葉を浴びせるのである。

ナフタには荷担すまい──それからゼテムブリーニにも賛成しない。彼らはどちらもおしやべり屋にすぎないのだ。ひとりは淫湯で悪意のあるやつだし、もうひとりはいつも理性の角笛ばかり吹いていて、気違いをさえ正気に戻すことがてきると自惚れているが、なんとも無枠なことさ。あのふたりの教育家!彼らの論争や対立こそごちゃまぜで、支離滅裂な鬨の声の挙げ合いいなんだから、すこしでも頭が自由にはたらいて心に敬虔な気持を持つ者なら誰だって、あんなおしゃべりに惑わされるものではない。

 合理主義者とスコラ哲学者への批判は、また合理主義そのもの、スコラ哲学そのものへの批判ともなっている。知識や学問を切り売りしている、教育者や学者に対する批判であ るとともに、生命の通っていない知識や学問そのものへの批判でもある。
 ゼテムブリーニとナフタは、合理主義とスコラ哲学を象徴しているが、また人文主義と テロリズムをも象徴している。更にイタリヤ人とユダヤ人を代表していて、ヨーロッパ文明に流れ込んだ、二つの主要な文明を象徴するものである。へレニズムとヘブライの文明である。従って、二人の教育者は、単に合理主義とスコラ哲学だけを代表するものではなく、現代ヨーロッパの文明を象徴しているのである。絶えず矛盾するものが対立相克している、二元的文明の象徴である。カストルプ青年は、生命の通っていない、絶えず対立している二元的思想に、鋭い批判を浴びせている。頭の遊戯になりがちなイデオロギーが、おしゃべり屋のおしゃべりにすぎないのだと批判しているのである。知識や学間は、生命の通っていない、死者の国のものになりがちである。知識や学問は、分析を好み、絶えず対象を、対立する二つに切断してしまう傾きがある。生命に満ちた統一を破壊してしまう のである。
 では、カストルプ青年が、死の世界のものとみられた知識や学問に、進んでかかわりを持ったのは、何を意図していたのか。ゼテムブリーニという知識人や、ナフタという学者と進んで交際を持ったのは、何を意図していたのか。このかかわりは、練金術的教育の一つの課程なのであり、死を通って生へ至る道なのである。真実の生に目覚めるために、生命の通っていない知識や学間に、進んでかかわりを持ったのである。知識や学間の世界をくぐり抜けて、真実の生に到達するのである。知識や学問は、それ自体で目的となりにくいものであるが、真実の生に至るために重要なのである。
 カストルプ育年は、ふたりの教育者を、ともにおしゃべり屋だと鋭く批判しているが、彼らに教育されることによって、始めて、人間についての貴重なイデーに到達することができたのである。それが、中間のイデーなのである。このイデーは、むしろポエジーと呼んだ方がよいと考えられるものである。カストルプは、雪のなかで、その言葉を見つけだしたのである。

死か生か──病気か健康か──精神か自然か。これらは矛盾し合うものだろうか?いったいこれは問題になるものだろうか?いや、問題にはならない、どちらが高貴かという問題も問題にはならないのだ。死の冒険は生のなかにあって、それがなければ生は生でなくなるだろう、そして、その中問──冒険と理性との中間こそ神の人間の占めるべき位置である──人間は対立の支配者で、対立は人間によって生ずる、だから人間は対立よりも高貴なのだ。人間は死よりも高貴で、死だけにつくには高貴すぎる、──人間の頭が自由にはたらくからだ。人間は生よりも高貴で、生だけにつくには高貴すぎる。──心に敬虔な気持を持っているからだ。

 トーマス・マンの教養小説である「魔の山」の主人公、ハンス・カストルプは、地獄のサナトリウムに封じ込められ、練金術的教育を受けながら、対立し合うふたりの教育者の間に、自分の身を置いて、中間のイデーを、探し求めたのである。それは、対立を支配する神としての人間のイデーなのである。
 このイデーが、作品の根本イデーとして、長編小説の「魔の山」の内容と形式を支えている。物語の主人公、ハンス・カストルプが、探し求めた中間のイデーは、また、物語の作者であるトーマス・マンが、創作の技法を支える、芸術の精神として求めているものである。「魔の山」には、対立する様々な素材が取り入れられ、巧妙に結びつけられ、調和を保っている。なかでも、特に際立って巧妙さを感じさせるのは、ゲーテのマイスター的素材と、ファウスト的素材が、調和を保って、作品のなかに取り入れられていることである。「魔の山」は、ヴィルヘルム・マイスターとファウストとの中間的存在なのである。
 トーマス・マンの「魔の山」が、マイスター的教養小読であることは、作者自身も述べ、多くの研究者の指摘するところなので、特に間題はないが、「ファウスト」との関係は、物語の舞台の奥で、巧妙に仕組まれているのである。
 「魔の山」には、ゲーテのファウストからの引用句があちこちに認められる。そのなかで、特に重要なのは、ヴァルプルギスの夜で、アダムの先妻のリーリットのでてくる箇所である。この引用句は、「魔の山」のなかで、誰がファウストで、誰がメフィストである かを明きらかにしてくれる。カストルプ青年が、ファウストで、合理主義者のゼテムブリーニが、メフィストの役になっている。二人の台詞のやりとりは、ゲーテのファウスト物語の合詞のやりとりと同じ順序でなされる。

「あの婦人をよく見てごらんよ!」とゼテムブリーニ氏がいうのを、ハンス・カストルプは遠くからのように聞いた。ハンス・カストルプはセウシャ夫人がやがてまた歩き出して 、ガラスのドアから食堂を出て行くのを見送っていたところだった。「あれはリーリットです」
「誰ですって?」とハンス・カストルプは聞き返した。
文学者は喜んだ。そして答えた。
「アダムの先妻ですよ。気をおつけなさい」

 ところで、メフィストは否定の霊なので、メフィスト役の合理主義者のゼテムブリーニも、当然否定の精神が強いのである。合理主義は、絶えず物ごとを割り切ってしまい、分析を好む。二元論的に、物ごとを対立させて考え、一方を簡単に否定してしまうのである。つまり善悪の判断があまりにも明確にすぎるのである。そうした意味での合理主義者が、メフィストなのである。
 魔の山のサナトリウムには、ゼテムブリーニの他にも、様々な悪魔が住んでいる。院長のべーレンスは、ラダマントと呼ばれ、地獄の裁き手である。医者が悪魔であるということは、知識や学問の世界が、悪魔と親しい関係にあることを暗示している。その関係を象徴杓に示しているのが、サナトリウムの療養ホールの入口にひるがえっている、マーキュリーの旗である。二匹の蛇をからませたマーキュリーの杖を染めぬいた旗である。この旗に染めぬいている蛇は、ゲーテのファウストにでてくるメフィストの叔母で、創世紀では、エバを誘惑し、善悪判断の知識を人間に与えてくれたのである。知識や学問は、物ごとを 分析し、対立させ、一方を厳しく否定してしまうことによって、悪魔との関係をもち続けているのである。
 二匹の蛇をからませたマーキュリーの杖は、神話の世界で、医学とともに練金術を象徴している。練金術は、悪魔と並んで、ファウスト物語には、欠くことのできないモティーフである。伝説のファウストは、繰金術士であるし、ゲーテのファウト物語で、小人のホムンクルスの生命を試験管のなかで作りだしているのは、練金術にほかならない。また天上の序曲で、主がファウストを、やがて心の澄む境地へ導いてやろうと言っているが、心澄む境地、つまり浄化や蒸留は、練金術の目的とするところである。こうしたファウスト的練金術が、「魔の山」のなかに取り入れられているのである。すでに指摘したように、魔の山のサナトリウムは、練金術的世界であるし、そこでの教育は、練金術的浄化の教育である。ゲーテのファウストが、悪魔と関係を持ちながら、心の澄む境地へ導かれていったのと同じように、魔の山のカストルプは、死者や悪魔の世界とつながりを持ちながら、浄化と向上を目的とする練金術的教育によって、人間についての貴重なイデーを得たのである。
 「魔の山」がファウスト的であるためには、勿論何よりも、主人公のカストルプ青年が、 ファウスト的でなければならない。ファウストが学問の世界から抜けだして、真実の人生を探求するように、カストルプは、知識や学問の単なるおしゃべりにまどわされることなく、真実の人間の在り方を追求するのである。ファウストの魂が、神と悪魔との間をただようように、カストルプの心は、ナフクタとゼテムブリーニとの間にあって、熱烈に人生を探求するのである。
 トーマス・マンの教養小説である「魔の山」は、様々な意味で、ファウスト的物語であり、作者自身が述べているように、ゲーテの教養小説であるヴィルヘルム・マイスターを、奇妙な、イローニッシュな、ほとんどパロディー的方法で、新たにしようと企てた物語である。従って、「魔の山」は、マイスター的であるとともに、ファウスト的でもあり、その関係は、実にイローニツシュである。ヴィルヘルム・マイスターと、ファウストとのイローニッシュな中間に、「魔の山」は置かれているのである。主人公のカストルプ青年が、物語のなかで求めた中間のイデーは、作家であるマンが、芸術の精神としで求めたものであり、ヴィルヘルム・マイスターとファウストを結びつけているのである。
 ところで、「魔の山」を支えている中間のイデーは、対立するものを調和させ、支配し、克服することを意図しており、イロニーの精神から生まれ、イロニーの精神とはわかちがたい関係にある。対立し、予盾し合うものの中間に、批判の眼を置き、どちらに荷担することもなく、両者を調和してしまう態度は、実にイローニッシュなものである。イロニ−の精神は、肯定しながらも同時に否定し、また否定しながらも同時に肯定しているのである。イロニーは、マンの作品には、初期のものから一貫して認めることができるが、「魔の山」を転期として、ロマン主義的イロニーがら、独自のイロニーヘと変化している。若い頃に、ニーチェの影響を深く受けたトーマス・マンは、ロマン主義的イロニーを、芸術の精神として受け入れたが、「魔の山」では、ロマン主義的イロニーが、イローニッシユな中間のイデーとなっている。初期の作品である「ブデンブローク家の人々」や「トニオ・クレーガー」で、生と死との予盾の克服を、市民と芸術家との対立の克服を試みているイロニーの精神は、ロマン主義的色彩が濃い。つまり、世界を、対立し合う二つの陣営に、例えば生と死に、市民と芸術家に切断してしまい、対立し合うものの間には、歩み寄るこ とのできぬ距離を置く。そこには、イローニッシュな中間の存在を考えることができないのである。しかも、対立し合う片方は、絶えず他方の存在に、限りな い憧憬を抱いている。ブデンブローク家のトーマスは、実務家という生の立場にありながら、死に重大な意味を見出し、死に憧れるのである。芸術家であるトニオ・クレガーは、芸術家の立場にありながら、凡庸な市民に憧れているのである。こうした憧れの心は、勿論対立や予盾の克服を、つまり新しい生のための自己克服を意図しているのである。ブデンブローク家のトーマスは、実務的な生の失敗を克服するために、死に憧れを抱いているのである。トニオ・クレーガーは、芸術家に疑いをもち、生き生きとしたものを獲得したいがために、凡庸な市民に憧れているのである。
 初期の作品にあらわれている、イローニッシュな自己克服の精神が、 やがて、「魔の山」では、イローニッシユな中間のイデーとなってあらわれてきているのである。ハンス・カストルプにとって、死か生か──病気か健康か──精神か自然か──というのは問題でなく、その中問が間題なのである。死と生との、精神と自然との対立を克服し、支配するために、イローニッシュな中間のイデーが問題となるのである。合理主義か、スコラ哲学か──人文主義かテロリズムか──文学か神学か──が問題なのではなく、それらを支配する中間的存在の、神である人間が問題なのである。
 このイロニーの変化を、トーマス・マンにもたらしたのは、ゲーテである。「魔の山」と平行して書かれたエッセイである「ゲーテとトルストイ」に、イロニーを定義して、中間のパッションであり、中間のモーラルであり、エートスであると明確にしている。ロマン主義的イロニーは、ゲーテ研究によって、中間のイデーとなったのである。この変化は、また「魔の山」以後の作品を、二−チェ的色彩よりも、ゲーテ的色彩の濃いものに変えてしまっている。勿論、「魔の山」以前の作品にも、ゲーテの影響のあとをうかがうことができるが、決定的な影響は、「魔の山」が初めてであり、その後の大作である「ヨーゼフとその兄弟たち」にしても、「ファウスト博士」にしても、ゲーテの存在を見落してはならず、トーマス・マンの背後には、絶えずゲーテの存在を感じさせるのである。
 一九二四年、トーマス・マンが四十九才のときに完成した「魔の山」は、彼の生涯の、最も重要な、ニーチェからゲーテヘの決定的な転期を飾る作品である。一見狡猾にさえ見える、偉大なゲーテから、中間のイデーを学び取り、「魔の山」のなかで、そのイデーに生命を与えたのである。単純なカストルプ青年は、地獄の世界であるサナトリウムで、練金術的教育を受け、二元的対立的イデオロギーにまどわされることなく、 死と病気を克服し、逆に対立を支配する中間のイデーを見いだしたのである。この中間のイデーこそ、神なる人間の占めるべき位置と姿を示すものである。そして、このイデーのなかから、未来に愛が、芽ばえてくるのを予見させてくれるのである。中間のイデーは、対立し合う両端に、絶えず深い愛をそそいでいる。単純なカストルプ青年の物語は、愛の誕生について語りつつ終るのである。

御機嫌よう!──生きているにしても倒れているにしても、お前の行手は暗い。お前が巻き込まれた血腥い乱舞はまだ何年も続くだろうが、私たちはお前が無事で帰ることは覚束ないのではないかと思っている。実を言うと、私たちはそれをどちらとも思いわずらわない。お前の単純さを複雑にしてくれた肉体と精神との冒険で、お前は肉体があるうちは殆ど経験し得ないことを精神の世界で経験することが出来た。お前は「陣取り」によって、死と肉体の放縦とのなかから愛の夢がほのぼのと誕生する瞬間を径験した。全世界の死の乱舞のなかからも──雨混りの夕空を焦がしていろ陰惨なヒステリックな焔のなかからも、いつか愛が誕生するであろうか?