トーマス・マンと神話


 トーマス・マンは、八十年の生涯を費しながら、初期の市民的な作品から、次第に、後期の神話的な作品へと成長し、人類の生の典型を求めている。古代の神話の世界から、たとえば、『すげかえられた首』では、インドの伝説、『ヨーゼフとその兄弟たち』では、ユダヤの聖書、『選ばれし人』では、ローマ逸話集から、小説の素材を取りあげ、パロディーやモンタージュ手法によって、神話的な作品を築きあげている。マンの関心を寄せた神話は、その他にも、多くを数えあげることができるが、なかでも特に、作品の主要なモティーフとなって、姿を変えながらも、頻繁に取りあげられているのは、ドイツのファウスト伝説とギリシャのへルメス神話である。ファウスト伝説では、対立する二つの世界に引き裂かれがちである生の典型が、またヘルメス神話では、二つの世界に裂かれはしたが 、再びもとの一つに帰っていく生の典型が語られているのである。
 トーマス・マンは、二十四才のとき、『ブデンブローク家の人々』を書きあげると、その翌年に、ファウスト伝説にとりかかろうとして、日記に三行の腹案を書いている。もっとも、ファウスト物語は、ずっと後になって、四十七年という長い歳月を経て、七十一才のときに、ファウストと現代の音楽家とを結びつけて完成をみるのであるが、一九○一年のファウスト腹案も、芸術家と結びつけられていたと考えられる。同じ年に書かれた『トリスタン』、翌年の『トニオ・クレーガー』では、いずれも芸術家が主要なテーマとなっている。おそらくファウストの悲劇と芸術家の悲劇との類似点に興味をいだいたからであろう。神と悪魔との間をさ迷っているファウストの魂は、健康な俗人と、ひどくいかがわしい芸術家との間に立って、そのどちらにも、安住の地を得ることのできないトニオ・クレーガーの魂と類似しているのである。晩年の『ファウスト博士』では、芸術家の悲劇を、第二次世界大戦のドイッの悲劇とからませている。現代のファウストである天才的作曲家、アードリアン・レーヴァーキューンは、脳に梅毒の病菌を受け入れ、素晴らしい作品を次々と仕上げるが、やがて苦痛と狂気の世界へ落ち込むのである。人間を超えた恐ろしいデーモンに取り憑かれて、一旦は称揚されたが、やがて暗黒の世界へ深く沈んでいくのである。
 二十四才のときのファウスト腹案と、七十一才のときの『ファウスト博士』では、ともに魂のゲーテ的救済が、ファウストに与えられておらず、ワーグナー的、二−チェ的、ロマン主義的色彩の濃い悲劇が演じられているが、トーマス・マンは、ファウストの救済の可能性を考えていなかったわけではない。『ブデンブローク家の人々』や『ファウスト博士』と並んで、マンの代表的作品である『魔の山』や『ヨーゼフとその兄弟たち』のなかで、秘かに、ファウストの救済を試みているのである。
 『魔の山』は、よくいわれるように、教養小説であるゲーテのマイスターのパロディーであるが、またゲーテのファウストを、奇妙な、イローニッシュな方法でもじっており、そのことを、明らかにしてくれる重要な箇所は、第五章のワルプルギスの夜である。しさりに、ゲーテのファウストから引用してきて、主人公のカストルプ青年が、ファウストで、合理主義者のゼテムブリーニが、メフィストであることを明らかにしてくれる。また、ファウストの魂が神と悪魔との間を漂うように、カストルプの心は、神の側に立つというスコラ哲学者のナフタと、メフィストの側に立たされた、合理主義者のゼテムブリーニとの間をさ迷うのである。ただ、トニオ・クレーガーの場合と違っているのは、カストルプ青年が、魔の山の錬金術的教育を受けることによって、やがて、救済の可能性の宿る安住の地が、どこにあるかに気づくのである。常に、対立し、矛盾しあっている二つの世界の中間にこそ、神である人間の占めるべさ位置があると、気づくのである。この中間のイデーは、第六章の美しい雪のシーンで語られている。

 死か生か──病気か健康か──精神か白然か。これらは矛盾し合うものだろうか?いったいこれは問題になるものだろうか?いや、問題にはならない、どちらが高貴かという問題も問題にはならないのだ。死の冒険は生のなかにあって、それがなければ生は生でなくなるだろう、そして、その中間──冒険と理性との中間こそ神の人間の占めるべき位置である──人間は対立の支配者で、対立は人間によって生ずる、だから人間は対立よりも高貴なのだ。人間は死よりも高貴で、死だけにつくには高貴すぎる、──人間の頭が自由にはたらくからだ。人間は生よりも高貴で、生だけにつくには高貴すぎる。──心に敬虔な気持を持っているからだ。

 物語の終りで、カストルプは、死と病気のメフィスト的世界である魔の山から抜けでて、平地の健康な市民の世界へ下りて行くのである。
 人間の魂の救済を、『魔の山』よりも更に明確に打ち出しているのは、『ョーゼフとその兄弟たち』である。マンのヨーゼフ物語と、ゲーテのファウストとの関係については、トーマス・マン自身が、一九四二年のワシントンでの講演で、しきりに触れている。ヨーゼフ物語を書さ続けるための強い刺激剤となったのが、ゲーテのファウストで、マンは、絶えす、この汲みつくせぬ言葉の泉に立ちもどっている。特に、第二部のヘレナのシーンと古代的ワルプルギスの夜に強く引かれている。更に、ヨーゼフ物語の序章、地獄行における過去の深みへの旅は、実は、ゲーテのファウスト第二部に描かれている、母たちの国への旅である。ゲーテのファウストが、母たちの国へ行ったのは、古代ギリシャのヘレナを連れだすためであったが、マンのヨーゼフは、エジプトという地獄で、ギリシャ神話のヘルメスと結びつくのである。ヘルメスは、道案内人で文字の神であり、ヨーゼフの救済のカとなるのである。
 ギリシャ神話のヘルメスは、トーマス・マンのお気に入りの神で、彼の作品では、『ヴェニスに死す』に初めて姿をみせており、その後、『魔の山』、『ヨーゼフとその兄弟たち』、『クルルの告白』など、マンの主要な作品には、必ず取りあげられ、重要な役を演じている。
 『ヴェニスに死す』でのへルメスは、『ブデンブローク家の人々』や『トニオ・クレーガー』の系統を引く、例の芸術家の悲劇とからんでいて、作品の主人公である作家のアッシェンバッハを、死の深淵へ導く役を勤めるのである。ヘルメスは、先ず、つばの広い経木編みの帽子をかぶった旅人の姿で現われ、アッシェンバッハの心を揺すり、旅へいざなうのである。次に現われてくるのは、ヴェニスヘ向う船の上で、ひどく縁のまくれあがったパナマ帽の薄気味わるい老人に姿をかえている。また、ヴェニスのゴンドラの船頭となって、形の崩れた麦藁帽をあみだにかぶっている。更に、最終的な死への導き手として、芸術家の前に姿を現わしたのが、美少年タジオで、芸術家の心を魅了し、コレラの死をもたらすのである。トーマス・マンは、物語の結びで、この少年を、Psychagogと名付けている。Psychagogとは、魂の導き手という意味で、ヘルメスの別の名である。
 『ヴェニスに死す』でのヘルメスは、魂の導き手として、芸術家を死の深淵へと導くが、この作品の後で完成した『魔の山』では、生の世界の導き手としても、重要な意味をも っている。ヘルメスの性格について、スコラ哲学者のナフタと合理主義者のゼテムブリーニとが議論をしている。ナフタは、死の世界へ魂を導く死の神、死者の神としての性格を強く主張するが、それに対し、ゼテムブリーニは、文字の発明神、学芸商業弁論の神であると反論するのである。しかし、『魔の山』における作品のイデーにとって重要なのは、Hermetikつまり錬金術であり、hermetikつまり錬金術的なものである。作者にとっては、錬金術の神としてのヘルメスが重要なのである。トーマス・マンは、しばしば、『魔の山』を錬金術的物語であると述べている。錬金術とは、下級なものから、上級のものへの浄化、化体、高揚といったことで、『魔の山』における二つの世界の仲介、 ヘルメス的仲介は、生の純化であり、生の積極的な肯定である。
 錬金術は、またゲーテのファウストにおいても、重要なモティーフである。ファウスト第二部のホムンクルスの象徴的意味づけについて、さまざまな意見があるが、その成立は、パラツェルズスの錬金術によるものであると、明らかにされている。中世風な実験室のレトルトのなかで、ホムンクルスの生命が結晶するのは、まさしく錬金術に相違なく、ホムンクルスは、ファウストをヘレナのもとに案内する。中世ドイツと古代ギリシャとの仲立ちの役を勤めていて、ヘルメス的性格をもっているのである。
 トーマス・マンが、ヘルメスの性格や象徴的意味づけをさらに明確にしているのは、『ヨーゼフとその兄弟たち』においてである。この作品では、ヘルメスは、エジプト生れのトトの姿をとり、神の言葉の書記、ものを書く人々の保護者、知恵と秩序の神である。エジプトのトトが、ギリシャのヘルメスに他ならないことは、すでに、『魔の山』の第六章で指摘されている。『ヨーゼフとその兄弟たち』で、ヘルメスは、言葉や知恵の神としての性格を前面に打ちだし、トーマス・マンが、初期の作品から終始問題に取りあげてきた、対立する二つの世界の克服を解決しようとするのである。仲介の神であるヘルメスは、言葉を巧みにあやつり、死の世界と、人間の生の世界との間をとりもつのである。『ヨーゼフとその兄弟たち』は、序章の表題である「地獄行」が示すように、作者は、死の世界へ深く下りて行き、再び、人間の生の世界へもどってくる。この長編小説は、たくみに言葉をあやつるパロディー的文章で、死の世界と人間の生の世界との間をとりもつのである。またヨーゼフは、ヘルメスの精神を身につけたヘルメス自身ともいえる人物である。ヨーゼフは、ヘルメスが姿を変えた道案内人に導かれて、死の世界へ下って行く。陰惨な黄泉の国と呼ばれるエジプトヘ下って行くのである。黄泉の国、恐怖の国の比愉である牢獄のなかへも転落するのである。しかし、再び牢獄を出ることができ、しかもその上、養い人と呼ばれ、国王ファラオと並ぶ高貴な地位を与えられるのである。黄泉の国であるェジプトから、父ヤーコブの許にもどることもでさたのである。このように死の世界と人間的な生の世界との間を出入りすることがでさたのは、ヘルメスの案内によるのである。ヨーゼフは、道案内人で仲立ちの神、ヘルメスについて次のように語っている。

 つまり、あの器用な神が、この場に居合わせて、ファラオに、自分の存在を気づいてもらいたがっでいる、ということ、即ち、あの夢を、下界から、ファラオの御寝所へ案内してきたのが、この神で、この神は、非常に陽気な性格の神でありながらも、月と死者との友として、下界への案内役でもある、ということを、勘定に入れておかねばならないのかもしれません。この愛想のよい神は、天上と地上との、仲立ちをする神で、天上では、下界のために取りなし、下界では、天上のためにとりなします。

 『ヴェニスに死す』に初めて姿を現わしているギリシャの神、ヘルメスは、トーマス・マンの最後の作品である『詐欺師、フェリクス・クルルの告白』でも、重要なモティーフとなっている。この末完に終ってしまった『クルルの告白』が、おそらく他のどの作品よりも、ヘルメスを、作品の重要なテーマとして、取りあげようとしたのではないかと思われる。主人公のクルルは、しばしば、はっきりと、ヘルメスと呼ばれているのである。この作品でのへルメスは、盗みの巧みな、しなやかな神となっている。クルルが、盗みの才能を十二分に発揮するのは、ヴェノスタ侯爵になりすまし、侯爵の巧妙な模倣をするときである。自分の身をもって、侯爵を盗みとり、模倣するのである。クルルは、ヴェノスタ侯爵になることに、自分の全力を集中し、鋭い感覚と聡明さで、旅の行く先々の状況を適確にとらえ、侯爵としては当然のごとき振舞いをするのである。クルルは、ヴェノスタにとっては、生まれからしてごく簡単であることを、確信にみちて振舞うのに、自分の全力を集中するのである。こうして、実際のヴェノスタよりも、より本物と思われるヴェノスタ侯爵が生まれるのである。『クルルの告白』で描かれているヘルメスの盗みと模倣の精神は、実は、トーマス・マンの作家精神の比喩なのである。マンが、神話や伝説を、好んで引用したり、改作したりするのは、パロディーというもじりの精神によるのである。
 トーマス・マンは、ヨーゼフ物語を書さ続けながら完成した『ワイマールのロッテ』で、晩年のゲーテの日常を描き、ゲーテの口を借りて、文化とはパロディーであると言いきっている。マンが、好んで神話や伝説を引用したり、改作したりしているのも、文化とはパロディーであるという考えに基いているのである。もちろん、マンが神話に強い関心を示しているのは、創作技法としてのパロディーが、先ず問題になっていて、そのために、神話が最も好都合であるという理由からではないのである。マンは先ず、神話そのものに強い興味を抱いているのである。ギリシャの神、ヘルメスが、ひどく気に入っているのである。その結果として、ヘルメス神話を、自分の創作に取り上げているのである。
 トーマス・マンが、神話を、パロディーとして創作に結晶させることができたのは、もちろん、神話の本質を鋭く洞察していたからである。神話の二重性を鋭く見通していたか らである。神話は、人類の故郷といえるもので、故郷と同じように、週去の世界のものとして、一度は立ち去り、捨て去ってしまったが、やがて安らぎを求めて、立ちもどるべきところである。出発地でありながら、また帰着地なのである。神話を取り扱ったマンの作品を代表する『ヨーゼフとその兄弟たち』の冒頭に次のような文章がある。

 過去という泉は深い。その底はほとんど測り知られぬといってよかろう。

 神語は、先ず、過去の世界のものであり、マンは、過去の世界を、泉という比喩を使って明らかにしようとしているのである。泉は、マンの作品で、しばしば重要なモティーフとなっている。『魔の山』の終りに引用されている菩提樹の歌にも、泉がある。ここでは、泉は、故郷の象徴となっている。冬の旅に出た青年の心の安らぐ故郷の象徴である。過去の世界や故郷は、すでに過ぎ去り、なくなってしまっていて、死の世界のものとなっているが、泉という象徴で表現されると、その二重性をあらわにして、死の世界は、また生の誕生の地となるのである。泉は、冷やかで静かな死を思わせるが、また涸れることなく、絶えず水を噴き出し、生の誕生を思わせるのである。過去や故郷は、なる程、死の世界のものであるが、この過去や故郷の世界で、生は誕生したのである。
 トーマス・マンの作品で、泉のモティーフと並んで、そのヴァリエーションである河と 海が、やはり、過去の世界や故郷の象徴として使われ、死と生との二重性を明らかにしようとしている。トーマス・マンは、初期の作品で、しばしば、故郷の北ドイツのリューベックの町を、物語の舞台にしており、その故郷の象徴となっているのが、トラーヴェ河とトラーヴェミュンデの海岸である。しかも、この河と海は、死と結びついているのである。『小フリーデマン氏』の主人公は、トラーヴェ河に、上半身を落し込んで死んでいくのである。『ブデンブローク家の人々』では、トーマスの死の準備に、海のモティーフが、ショーペンハウァーの哲学と並んで使われている。ブデンブローク家のトーマスは、死の数か月前に、実務的な仕事に疲れはて、トラーヴェミュンデの海岸に出かける。北のバルト海に感じたのは、疾病の美である。死を予感させる絶望的な美である。人間が、死後に 帰りつく故郷を思わせるものである。しかし、これに反して、地中海では、美の女神ヴィーナスが誕生したと言われる。物語の始まる新宅祝いの席で、ブデンブローク夫人は、ヴィーナスに譬えられているのである。
 死と生との二重性をより明確にしてくれるのは、神話の世界で、トーマス・マンは、神話の本質にかかわる問題として、神話の二重件を鋭く洞察している。神話の世界では、人類の生の典型が、過去即未来というイデーのもとに、繰り返し現われてくるのである。過去は、即ち未来である。過去という泉は、未来に向けて、新鮮な水を、絶えず噴さ出す泉なのである。マンは、『ヨーゼフとその兄弟たち』のなかで、このことに、しばしば触れている。序章の地獄行では、次のように述べている。

 われわれの意図は、伝説と予言とを混同するという神秘によって、時間そのものを消し 去ろうというにある。この混同によって「いつか」ということばは、二重の意味を帯びて週去をも未末をも言い表わし得るようになるのだし、そこでまた「いつか」という言葉には「現在」に転じうる潜在エネルギーが賦与せられるわけなのである。さればこそ万有回帰という考えも成り立つわけなのである。

 神話の、過去即未来という二重性について、マンは、『フロイトと未来』という講演で、深層心理学に触れながら、綿密に分析している。神話とは、典型的なものである。また、典型的なものが、生の原型であり、生の最初の規範であるならば、当然神話的なものとなるのである。生の典型といったものが、神話となって、人類の歴史に語り継がれているのである。従って、過去に一度誕生し、神話に結晶した生の典型は、当然のこととして、未来にもまた、繰り返して現われてくるのである。即ち神話が、過去即未来の二重性を持つのである。レッシングに関する講演でも、神語と典型について、次のように述べている。

 典型は、神話的であります。神話の本質は、繰り返してあり、時間の超越であり、永遠の現在であります。

 神話が、典型的なものであるならば、また象徴的なものである。神話の象徴的意味 に関して、晩年のゲーテが、神話学者のクロイツァーと興味のある対話をしている。すべてギリシャ神話の人物は、二重のものとみなさなくてはならず、ただの現実の裏に、より高い象徴がかくされているということを、クロイツァーは説明し、ゲーテは、熱心に傾聴して、神話の象徴的意味を、一見二枚に見えるが、実は一枚である銀杏の葉を取り出して、理解している。即ち、一であって二である。
 神話は、過去即未来という意味の二重性と並んで、ただの現実と、そこにかくされたより高き象徴との二重性を、その特性としているのである。トーマス・マンが、次第に神話に引きつけられ、神話の世界へ深く分け入ったのは、神話にかくされた、より高い象徴の世界に引きつけられたからである。ヨーゼフ物語の冒頭で、過去という泉は深いと嘆息しながら、人問存在の始源へ、人類の深い源泉へと分け入って行くのである。
 ところで、マンの成長発展過程を一言で言いつくすならば、市民的なものから、神話的なものへである。『ブデンブローク家の人々』を頂点とする市民的なものから、『ヨーゼフとその兄弟たち』を頂点とする神話的なものへと成長しているのである。『魔の山』と『ヨーゼフとその兄弟たち』では、ヘルメス神話が、ファウスト伝説とからみあって、重要なモティーフとなっているのである。ファウスト伝説における神と悪魔との対立概念が、また、ヘルメス神話における中間の態度が、生の典型として描かれており、作者は、晩年になるにつれてますます深く、人類の源泉へと分け入っているのである。ところが、これらの作品とは対照的な『ファウスト博士』では、二十世紀の生々しい現実とまともに取り組んでいる。神話的なものが、つまり、ファウスト伝説と二−チェの生涯が、モンタージュ手法によって、巧みに引用され、第二次世界大戦のドイツの悲劇を浮き彫りにしている。ファウストの神話的な物語は、ドイツの悲劇的現実を象徴しているのである。ファウスト悲劇が、ナチス・ドイツの悲劇として繰り返されているのである。神話的なものとして、生の悲劇の典型が繰り返されているのである。『魔の山』や『ヨーゼフとその兄弟たち』で取り扱われているファウストモティーフ は、ひどくゲーテ的であって、ギリシャの世界と結びつき、人類の救済の可能性を明確にしているが、それに反して、『ファウスト博士』にあらわれてくるファウストは、ゲーテのとはひどく違っていて、ギリシャの世界との結びつきがなく、ドイツの神秘的音楽家の姿をしている。人類の魂の救済はなく、人類の生の悲劇が描がれているのである。
 ギリシャの世界と切り離されているファウストは、ドイツの歴史に繰り返して訪れる、ドイツの運命悲劇を象徴するものである。神と悪魔とによって、二つに引き裂かれるファウストの魂は、ョーロッパの中央部にあるドイツが、隣接する諸外国の軍隊に荒らされる不幸な運命を象徴している。三十年戦争では、カソリックとプロテスタントの争いに端を発し、ドイツの国土は、スペインやフランスの軍隊によって、特に、ひどく荒らされるのである。この運命悲劇の典型は、再び、第二次世界大戦でも繰り返され、ドイツは、長い歳月を、東西の二つに引き裂かれていたのである。
 もちろん、トーマス・マンは、こうした悲劇的ドイツの、末来における救済を確信していないわけではない。その確信を作品に結晶しているのが、『選ばれし人』である。法皇グレゴリウス生誕の物語は、マンがすでに、『ファウスト博士』の第三十一章で簡単に取りあげているが、この物語がひどく気に入って、後日、ささやかな古風な小説を作ろうという考えを抱いたのである。トーマス・マンは、『ファウスト博士誕生』で次のように述べている。

 『ファウスト博士』執筆のかたわらに、私は、夜、長い間『ローマ逸話集』を読んだ。この物語集のなかで最も美しくて最も驚異的なのは法皇グレゴリウス生誕の物語である。 兄妹の交合から生まれた身が母と通じたことによって法皇に選ばれる、というのであるが、──万事は、もちろん、荒岩の上で十七年間信じられない程の禁欲を続けたということによって償われる。極端な罪業、極端な贖罪、こういう順序になる時にだけ聖徳が生ずるのだ。

 極端な罪に対する極瑞な贖罪を、第二次世界大戦中のマンが、祖国ドイツのために最も切望したのである。トーマス・マンは、世界に対するドイツの罪が、あがなわれることを確信して、グレゴリウス物語を書きあげたのである。
 『ファウスト博士』と『選ばれし人』でもやはり、『ヨーゼフとその兄弟たち』と同じように、神話の二重性が間題になるのである。過去は、即ち末来なのである。中世のファウストの破滅は、生の悲劇の典型として、再び二十世紀のドイツの破滅となったのである。中世のグレゴリウスの贖罪は、未来に繰り返されて、ドイツの贖罪となるのである。伝説と予言とを混同するという神秘によって、時間そのものが消し去られ、永遠の現在が語られるのである。これが、人類の生の典型なのである。トーマス・マンは、八十年の生涯をかけて、生の典型を求め、現代の悲劇の克服を試みているのである。初期の市民的な作品で、市民と芸術家との葛藤を通して、生の克服を求め、後期の神話的な作品では、人類の歴史に繰り返し現われてくる生の典型を求めているのである。トーマス・マンは、一八七五年に生まれ、二度にわたる世界戦争という人類の悲劇を体験しながら、ファウスト的作品では、とかく対立する二つの世界に、引き裂かれがちである生の典型を、またヘルメス的作品では、二つの世界に裂かれはしたが、再びもとの一つに帰っていく生の典型を描いているのである。  (1969年10月)