トーマス・マンと三島由紀夫、そして大江健三郎

トーマス・マンと三島由紀夫、そして大江健三郎 

高橋信之

                                               1.        

 大江健三郎の『あいまいな日本の私』という題のノーベル賞受賞記念講演の なかで、見逃してはならない重要なところといえば、大江の「私」にかかわるヨ ーロッパのユマニスム(人文主義)であろう。この講演は、「人類の全体の癒し と和解に、どのようにディーセントかつユマニスト的な貢献がなしうるか」とい う文で括っている。ドイツのノーベル賞作家トーマス・マンにとっても、ゲーテ やトルストイ等に姿を変えたユマニスムが大きな課題となっていた。ヨーロッパ のユマニスト達に教えられて、戦争の時代をナチと戦い、民主主義の勝利を疑う ことがなかったのである。「文学のすぐれたものは、なにより僕らに励ましをあ たえる。」(新しい文学のために)と言う大江は、このトーマス・マンにも「救 助」をもとめ「励まし」をあたえられた。「僕は深く気が滅いってくると、医師 トルストイ、ドストエフスキー、あるいはマンに救助をもとめる。」(『個人的 な体験』から『ピンチランナー調書』まで)と告白する。トルストイ、ドストエ フスキー、あるいはマン、これらの作家の長編小説に描かれた人物の「人間らし い」生き方を見て励まされたのである。文学作品上での「人間らしい」ものと言 えば、フモール(真のユーモア)があり、トーマス・マンは、風刺家(Ironiker) と見られるよりも、むしろ諧謔家(Humorist)と見られるほうがうれしいと語って いる。マンの考えでは、イロニーは読者なり聴衆なりに、微笑を、言ってみれば 知的微笑を誘い出す芸術精神であるのに対し、フモールのほうは哄笑を惹き起こ すものである。イロニーとフモールとの違いを見極めることは難しい。フモリス ティシュな要素を、マン自身は自分の書いた作品の中に跡づけてこう語っている 。 

 別の例を一ついま思いつきましたので、あげてみましょう。『詐欺師フェー リクス・クルルの告白』の比較的最初の一章にこんな場面があります。ある自然 科学の教授が若い贋侯爵に、運がいいときにまといつく女性のむっちりとしてス マートな腕といえどもも、太古の鳥の爪をもつ翼や魚類の胸びれと何ら変るもの ではない、と教えます。これに対し自称侯爵は答えます。「わかりました、教授 殿。有難う存じます。今後はそのことを忘れないようにします。」よろしいです か、この個所にくるしきまって会場はどっと笑うのです。フモリストというもの は聴衆が朗らかになったときに満足感をおぼえるものですが、これは私にそんな 満足感をおぼえさせる効果をもった個所の一つでした。 (Humor und Ironie,Bd. ]T,S.803)

 多くのフモールには、一つの前提がある、ということを見逃してはならない であろう。「女性の腕」といえども「太古の鳥の翼」や「魚類の胸びれ」と何ら 変るものではない、といういささか悲しい現実を、あるがままに認めなければな らないのである。その上で、その現実をフモールで笑いとばしてしまうのである 。別の例として、『ヨゼフ四部作』のヤコブという極めて悲愴な人物を取り上げ  

 もともとまったく悲劇的であるにちがいないような場面においてさえも、フ モールがあります。これはイロニーととりちがえることのできないもので、本質 的に異種のもです。(Humor und Ironie,Bd.]T,S.803)

と、フモールの本質にかかわる一つの悲劇的な前提をトーマス・マンはきっぱ りと語っているが、こういった人間らしいフモールが三島由紀夫の作品になく、 大江健三郎の作品にはある。 大江健三郎は、デビュー作『奇妙な仕事』に続く 二作目の小説として『死者の奢り』を発表した。この作品のストーリーは、大学 病院の死体処理のアルバイトが不可解な手ちがいから無駄になるというもので、 その冒頭は  

 死者たちは、濃褐色の液に浸って、腕を絡みあい、頭を押しつけあって、ぎ っしり浮び、また半ば沈みかかっている。彼らは淡い褐色の柔軟な皮膚に包まれ て、堅固な馴じみにくい独立感を持ち、おのおの自分の内部に向って凝縮しなが ら、しかし執拗に躰をすりつけあっている。

という翻訳調のやや重たい文体で始まるが、そこには、大江の抒情が独自に美 しくたゆたうのを読み取ることができるであろう。それは現代の抒情であって、 この作品の死者たちの世界には、現代の閉ざされた壁、現代社会の逼迫した情況 の比喩がある。そして、そこを脱出する手立ては何か、ということが大江文学に とっての課題となる。この課題を『死者の奢り』の文体から見ると  

 僕は水槽の縁に躰を擦りつけている中年の女の死体の硬い肉附きの腿をゴム 手袋をした掌で、軽く叩いてみた。それは弾力のない、しかし柔軟な抵抗感を持 っていた。私の腿は生きていた間、ずっと良い形だったけど今となっては少し長 すぎるかもしれないわ。良くできた櫂のようだと僕は思いながら、その女が軽い 布地の服を着こんで舗道を歩く姿勢について考えた。少し前屈みだったかもしれ ないな。

という個所が重要であろう。アルバイト学生の「僕」が語り続けるなかに、不 意に中年の女の死体の「私」を割り込ませるという文体の転換である。これは、 大江のフモールの文体といってよく、「……わ。」や「……な。」で終わる会話 調も効果的である。この文体は、他の個所でも指摘することができる。解剖台の 上に置かれた十二歳ほどの少女の新しい死体を描写するところである。  

 死体に屈みこんでいた学生が注射器を持って躰を起すと、僕はそれまで学生 の白衣の背にかくされていた少女のセクスがあけひろげに、僕の前にあるのを見 た。それは張りきって、みずみずしく生命感にあふれていた。それは強靭に充実 してい、健康でもあった。僕はそれに惹きつけられ、愛に似た感情でそれを見ま もっていた。君は激しく勃起したな。

 「近未来SF」として書かれた『治療塔』とその続編『治療塔惑星』にも、 フモールに溢れる文体を見ることができるが、「祖母」の、切羽詰まった物語の 背景とは異質の、昔ながらの方言口調は、のんびりとして明るく、大江独特の人 間らしいフモールがある。こういったことは、マンの言う「時代を超えた人間性 」によるものと言えるであろう。   

    2.            

 トーマス・マンは、『来たるべきデモクラシーの勝利について』という講演 で、デモクラシーは「時代を超えた人間性」につながるものとし、また『ゲーテ とデモクラシー』という講演では、デモクラシーの最高の表現として、ゲーテの 『ファウスト』から次の詩句を引用している。   

 人間よ、気高くあれ、                
 人を助け、善良であれ!  
 それのみが  
 人間を、われらが  
 知るかぎりの存在から  
 区別するがゆえに。(Goethe und die Demokratie,Bd.T],S.781)

 デモクラシーという表現をもつ人間性が、マンの場合、ナチとの戦いの原動 力となったものと思われる。 大江健三郎にも政治についての積極的な発言があ り、その「戦後民主主義」は、よく知られているが、『子規の根源的主題系』と 題した短い文章は、三島と大江の違いを知る上での重要な鍵となる。  

 私小説の作家は、子規のように全体的、綜合的であったことはなかった。ご くまれにそれに近かったのみだ。子規はまたいかなる私小説の作家よりも勇敢に かれの全体を見せている。細部にわたって克明に。その細部の選び方において、 子規はおそるべくデモクラティックだ。

 細部と全体との関連において「デモクラティック」であるか、ないか、が問 われているが、三島と大江との対談『現代作家はかく考える』での発言は、デモ クラティックであることについての二人の決定的な違いを教えてくれる。大江は 、「有機的に細部のイメージがつながっている小説。」と言い、三島は、「細部 というものはいつも全体を代表するものである。」と言って文化的ナショナリス トの側面を明らかにする。 マンと大江の「核兵器」についての発言も、その人 間性からくるところのもので、三島の世界とは一線を画している。マンは、広島 への原爆投下を知って、それを「宇宙的暴力」と名付け、「政治的に利用した」 と非難している。  

 政治的だというのは、この無気味な「武器」を日本に勝つために使用する必 要はもはや全然なかったのだからである。その使用は、ただ、日本に対する勝利 にロシアが参加するのを出し抜くために必要であったというにすぎない。そうい う動機はヴァティカン宮をさえ満足させることができないように見えた、と言う のも、ヴァティカン宮は憂慮と宗教的な非難とを表明したからである。ローマ教 皇が声明した疑懼の念は、多くの人々がこれを共にしたが、私もその一人であっ た。 (Die Entstehung des Doktor  Faustus,Bd.]T,S.233)

 核兵器使用を「政治的だ」と非難しているので、マンのこの発言を、「政治 的だ」とは理解しがたいであろうし、「人間らしい」ものと受けとめるのが自然 であろう。大江健三郎も「戦後民主主義」、そして『広島ノート』に書かれた「 核」の問題等、政治に対する積極的な発言があるが、これも政治的であるよりは 、きわめて「人間らしい」ものと受けとめるのがよい。原爆病院の重藤院長に見 いだした「人間的な威厳」は、それを象徴的に語っている。そして、広島原爆病 院の「人間らしい人々」によって教えられ、励まされたことは、自分に起こった 出来事を「人間らしく」引き受けていくということであった。出来事とは、脳に 障害をもった息子のことである。  

 僕は自分の「最後の小説」を、広島の原爆病院で学ぶことにはじまった、原 爆のもたらす悲惨・苦しみについて、またそれとわかちがたくからみあった、人 間らしい威厳・再生への希望について、総ぐるみ表現するものとしたい。それを つうじて、この大きい祈りに自分の声をあわせるようにしたい。この二十四年間 、障害のある息子の新しい苦しみのたびに、それを思い出すことで家 族みなが 生き続ける方向へ励まされた、ヒロシマの被爆者たちの すでに多く死者たちで ある 懐かしい声への答えともしたい。それは僕の文学のというより、このよう に生きて来た自分の生の結論ともなるだろう。(新しい文学のために)

 大江の「最後の小説」となると言われているのは、『燃えあがる緑の木』三 部作であるが、これは、むしろ「締めくくりの小説」、大江の「小説家としての 生のしめくくりとして」書かれた小説と理解するのがよく、「最後の小説」は、 『治療塔』とその続編『治療塔惑星』とであろう。この「近未来SF」は、広島 体験と障害児体験が一つになって大江の生きてきた結論となる。「核」時代を生 きぬく大江の「死と再生」の物語を終わらせるもので、小説のすべての可能性を 掘り起こし、その形式を終わらせるものであろうという小説である。トーマス・ マンの長編小説『ファウストゥス博士』も、時代と鋭く対決する「死と再生」と いう意図で、大江の『治療塔』とその続編『治療塔惑星』とに共時性(シンクロ ニシティー)があるとみてよい。そして、この「死と再生」は、明らかに神話を 意識した上でのことであると思われる。  神話のおもしろさは、現実と象徴と の二重性にあり、晩年のゲーテと神話学者クロイツァーとの対話がそこを明らか にする。すべてギリシャ神話の人物は、二重のものとみなさなくてはならず、た だの現実の裏に、より高い象徴がかくされているということを、神話学者が説明 する。ゲーテは、その二重性の意味を、中国か日本の銀杏の葉を取り出して理解 している。一見二枚に見えるが、実は一枚である銀杏の葉である。 ただの現実 の裏に、より高い象徴がかくされている、ということが、神話の読み方であれば 、神話づくりの物語作家は、神話づくりの物語に現実性を与えることに努めるこ とであろう。そのための手法としての「引用」がある。マンの『ファウストゥス 博士』の冒頭にダンテの神曲からの引用がある。大江の『懐かしい年への手紙』 にも、『燃えあがる緑の木』にもダンテの神曲があり、その深いところでの自己 の「死と再生」を意味する回心なのであろう。マンによれば、引用というものは 、「虚構に変化する現実であり、現実的なものを吸収する虚構であって、現実と 虚構という二つの領域の独特に夢想的な魅惑的な混合ともいうべきもの」なので 、その二重性によって物語に現実性を与えることができるのであろう。大江文学 のリアリティに関わる問題として、そのバロック的引用法を取り上げているのは 、高橋英夫である。(引用と再現)  また、この二人に共通する小説技法とし て、語り方(ナラティヴ)の新しい文体の発見があり、「世界の危機」や「地球 の終末」といった切羽詰まった情況のなかでの「人間らしい」フモールがある。 ナレーターの挿入、登場人物の語りが滑稽化されているのである。長編小説『フ ァウストゥス博士』は、マン自身が物語るのではなくて、ナレーターに物語らせ ることにする、という方策を講じているが、マンはその必要をこう語る。          

 陰惨な素材を幾分か明朗化して、素材に含まれたいろいろな恐ろしさが、私 自身にも、また、読者にも堪え得るものになるようにするために、是非とも必要 なことだったのである(Die Entstehung des Doktor Faustus,Bd.]T,S.164)

 続けてマンは、更に深くその小説技法について

 ヒューマニズムの立場に立つ男で、魔神的なものを愛しながら恐れおののい ている、善良で淳朴な魂の持主に魔神的なものの描写をゆだねるということ、こ れはこれだけでも滑稽な着想で、いくらか肩の重荷を軽くしてくれるものであっ た。 (Die Entstehung des Doktor Faustus,Bd.]T,S.164)

と、この長編小説の成立を語ってくれる。大江のフモールの文体は、正確に言 えば、大江自身の言う「語り方のスタイル」ということになるであろう。『個人 的な体験』をはじめとするいくつかの作品で「障害を持った息子」という重いテ ーマを克服した大江は、『ピンチランナー調書』で現代の閉ざされた壁からの脱 出を試みる。それは、「笑い」のスタイルであり、小説という創造物だけがなし とげることができる「「「つまり笑いとばすしかないということである。『同時代 ゲーム』では、四国の山奥の村人と大日本帝国軍隊との五十日戦争を「笑い」の なかで物語る。『M/Tと森のフシギの物語』、近未来小説『治療塔』では、更 に「語り方のスタイル」の発見、ラストピース(最後の作品)ということになる が、ラストピースに向かう。『死者の奢り』にはじまり、『治療塔』、『燃えあ がる緑の木』に至る大江文学の発展過程のなかで、「語り方のスタイル」の発見 に向けてのフモールの文体が意味するところは大きい。 トーマス・マンや大江 健三郎の「人間らしさ」、そして文体上のフモール、これらは「時代を超えた人 間性」からくるもので、現代社会と文学を強く結びつけてくれるであろうし、文 学は、現代社会のなかでの力を得ることができるであろう。それは、現代社会の 危機的情況のなかでさえも失われないもので、そこには、人間の未来への救いが 確かにある。 「人間らしさ」といえば、ゲーテが『ファウスト』の終末近くで 述べているところの                             
 自由な民と共に、自由な土地の上に住みたい。(鴎外訳)            

という世界にも通じるであろうし、また、ベートーベンの『第九交響曲』にも 通じている。その第四楽章での合唱、シラー原作の『歓喜に寄せて』は、「おお  友よ」という親愛のこもった呼び掛けで始まり、その最終行では「星々のかな たに神は必ずやおわしますのだ。」と神の存在を確信して歌う。これは、地上楽 園の人間らしい世界に違いない。トーマス・マンは、長編小説『ファウトゥス博 士』のなかで『第九交響曲』を、「人間らしいもの」と呼び、「善であり高貴で あるものだ」(Doktor Faustus,Bd.Y,S.634)と答えている。

※トーマス・マンのテキストは、Gesammelte Werke in zw・lf B、nden,S.Fisher Ver-lag 1960を使用し、その訳は、新潮社の全集による。 


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