俳句のリアリズム

芭蕉の虚と実

 俳句は、いくら写生が重視されても、結局人間の心をうたうものなので、現実の世界を取り扱いながらも、その現象的な表面ではない、物の本質を見失ってはならないのである。そのためには、やはり二重性とか二面性とかを考えないわけにはいかない。また、俳句のリズムを間題にするとき、虚像としての時間と実像としての時間の二重性を無視するわけにはいかないのである。
 虚と実は、もともと、無と有、うそとまこと、ということであるが、文芸上では、虚構(フィクション)と事実のことで、「花実」と同じ意味に用いられることもある。花実は、もともと中国の詩論に用いられた語であるが、わが国最初の歌論といわれる古今和歌集の序に取り入れられ、詞(花)と心(実)との繋りを明らかにする。しかし、芭蕉の語り遺したものには、花実の意ではなく、むしろ仏教的な「空・色」の意に解される「虚・実」がある。もちろん般若心経の「色即是空」でいわれる意味である。

 翁の曰ク。「俳−諧といふに。三ッの品あり。寂−莫はその情をいへり。女−色美−肴にあそびて。麁−食のさびをたのしみ。風−流はそのすがたをいへり。綾−羅錦−繍に居て。薦着たる人をわすれず。風−狂は其言−語をいへり。言−語は。虚に居て実をおこなふべし。実に居て。虚にあそぶ事はかたし。此三ッの品は。ひくき人に。高き所をいふにはあらず。高き人の。ひくき所をいふなり」とぞいへる。(本朝文選巻之九)

 風狂というのは、風雅(芸術・世間の対立語)をさらに極めたもので、俳諸の言語を指している。つまり、ここにあげた芭蕉の遺語は、虚実を用い、俳諧の言語について語ったものである。俳諧とは、言語を追求していくことでもあり、虚とは、「色即是空」の「空」である。「色即是空」とは、辞書(広辞苑)の言葉をかりると、「色とは有形の万物をいい、これらの万物はすべて因縁の所生で、その本性は実有のものでないから、空である」という意味で、「空即是色」とは、「実体なく空であると見られる万物は、そのまま有形の存在でもある」という意味なのである。したがって、「空」であるとみられる芭蕉の「虚」は、相対的固定的な世界ではなく、絶対的自在の境地をさし、実は、その反対の相対的な差別相をさしているのである。芭蕉が言う「虚に居て実をおこなふ」とは、相対的な世間的な関係を抜け切った自在な境地(虚)に居て、実生活を日常的に過ごし、世間に通用する言語を用いて俳句を作ることであろう。「実に居て虚にあそぶ事はかたし」とは、心が俗世間の関係を断ち切ることができない限り、俳諧の自在な境地にあそぶことは難しいと語っているのであろう。このことは、その後につづく「高き人のひくき所をいふなり」という言葉で、さらにはっきりするのである。これは、芭蕉の有名な言葉「高くこヽろをさとりて俗に帰るべし」と同じことを言っているのであろう。
こういったことを分かりやすく説明したものに、漱石の「草枕」がある。この小説は、ヨーロッパに対し、日本の良さを弁護するために書かれたものであり、俳句の世界、つまり俳諧精神を解説した小説とみなすことができる。
 「草枕」でいう「非人情」とは、すでに序章の「漱石の俳句観」で述べたように

余の欲する詩はそんな世間的の人情を鼓舞する様なものではない。俗念を放棄して、しばらくでも塵界を離れた心持ちになれる詩である。

ということであり、芭蕉の「虚」は、漱石の「非人情」の境地と同じであり、世間的の人情ではなく、俗念を放棄し、塵界を離れた境地である。「士・農・工・商」というような身分のしがらみから抜け出た解脱の世界である。
芭蕉の「実をおこなふ」とは、漱石の『草枕』の言葉をかりるならば、十七字という軽便な詩型を用いて、日常生活のなかで容易に作句することである。解脱の境地で、日常生活をおこない、日常的な言葉を使うことである。芭蕉の遺語に「俳諧は平話を用ゆ」とある。平話は、当時和歌連歌で使っていた詩的な言葉ではなく、日常的な言葉のことである。俳諧は、俗な言葉を使用したのである。ただ一方で、「俳諧の益は俗語を正す也。」といっているので、芭蕉の俳譜は、決して低俗な日常語ではなく、磨き正された俗語を用いたのである。これは、実(リアル)の世界にいる新聞記者の心がけねばならないことと同じであろう。新聞記事の文章は、三つのC、つまり、Correct(正確)、Clear(平易)、Concise(簡潔)の三点を特に注意しないといけないといわれる。この三点は、作句の場合でも同じである。俳句が、十七字音定型という短詩型文学であることにもよるのである。短く簡潔であるために、平易であり、かつ正確でなくてはならないのである。芭蕉のいう「平話」を用い、「俗語」を正ざなければならない。また、このことが俳句にリアリティをもたらしてくれるのである。「虚に居て実をおこなふ」というのは、仏教の「色即是空」の論理に支えられている俳句のリアリティの間題に帰着するであろう。


子規の写生論


慶応三年(一八六七)、伊予松山に生まれた正岡子規は、大学予備門(一高)を経て東大国文科を中追した後、日本新間社に入社、新間「日本」の紙上で、旧派宗匠の俳諧を攻撃し、月並俳句を批判したのである。それはまた、芭蕉・蕪村を新しく見直した新派俳句の興隆となるのである。その理論上の支えとなったのが、子規の写生論であって、当時の新進洋画家中村不析との交流のなかから得たもので、西洋画論の影響である。


実際の有のま、を写すをかっに写実といぷ。又写生ともいぷ。写生は画家の語を借ったるなり。又は虚叙といぷに対して笑叙ともいぷべきか。(叙事文)


子規は、写生論を理論上の支えとしながら、俳句実作を続け、その晩年には、次の一句を生みだしている。


鶏頭の十四五本もありぬべし


子規この句の評価は、まちまちであるが、子規の写生論を取りあげるときには、必ずといってよいほど間題になる句である。この句は、歌人斎藤茂吉によって、子規晩年の代表作の}つとして賞揚されたが、高浜虚子は、子規の住句と認めることはなく、終生黙殺したのである。

詩人大岡信氏は、この点に触れて、虚子や碧梧桐のような俳人がこれを認めず、節や茂吉のような歌人がこれを賞讃したことも、思い合せてみれぱ興味がある。


私はこの句を面自いと思っている一人である。(鶏頭の十西五本も)


と述べているが、この句の「ありぬべし」という語法の大岡信氏の解釈には、すぐにはついていけない。「客観写生の語法とはいえない」と指摘したのは、確かに正しい。しかし、客観写生は、虚子のとなえたものであって、子規の句について特に、「客観写生」を間題にする必要はない。ざらに大両信氏は「子規はこうして、去年の鶏頭の思い出のために、筆をとって「鶏頭の十四五本もありぬべし」とすらすら書きつけたのではないかビと論を進めているが、「もありぬべし」という語法は、明らかに、鶏頭の数の多さに対する驚きを表現しているのであり、表面的な写生から内面的な写実へと一歩を進め、鶏頭の生命力、つまり、数の多さと赤の激しざを詠ったものである。大岡信氏が、「もありぬべし」における「も」の意味を見逃しているのが気にかかるのである。「も」にこめられた子規の写生の心は、単なる客観写生とは言い切れない。もちろん、「ありぬべし」という語法によって「も」の意味が深められているのである。完了の「ぬ」と推量の「べし」が結ぴついた「ぬべし」は、確認の意味で便われ、「もあり」という語が述べている事実を確認しているのである。したがって、大岡信氏が指摘するように「ありぬべし」の語法が、「現在ただいまの景を詠む語法としては異様である干と言い切ってしまうことはできないであろう。「鶏頭」の句は、鶏頭の生命力を、子規の主観が提えたものであり、明らかに虚子のいう客観写生の句ではなく、だからといって大岡信氏のいう単なる主観的な思い出の句でもない。子規は、晩年の一連の句で、過去の思い出にぷけっているのではなく、表面的な写生から、内的な真を詠う写実へと一歩を進めていることは、間違いない。子規の写生論は、これまでにも多くの誤解を引き起こしてきたのである。詩人伊東静雄は、芭蕉の象徴主義と子規の写生主義を対比ざせて、子規批判の論を展開ざせながら次のような大胆な結論を引き出している。


彼の「写生」は、句の表面に「主観を直叙」することをさけようとすることから出発して、遂にはそれにとどまらず、芸術が芸術たる所以の芸術的直観までも排して、全然没主観的な機械的形象模倣にまでおち入つて行つたのである。(子規の俳論)


この文は、子規自身が語っている次の箇所を読めば、明らかに誤解であると気づくであろう。


文学に於て我が美とする所はある人の説く如く理想をのみ美とするに非ず、写笑をのみ美とまするに非ず、紳た理想的写笑又は写実的理想をのみ美とするにも非ず、我の美とする所は理想にもあり、写実にもあり、理想的写実、写実的理想にもあり、面して我の不美とする所も亦此等の内に在り。我は宇宙到る虎に美を覆見せざること無く又不美を発見せざること無し。(我が俳句)


また空想に偏すみこともなく、写実に偏することもない「非空非実の大文学」ということも一言っているのである。


作者若し空想に偏すれば陳腐に堕ち易く自然を得難し若し写実に偏すれば平凡に陥り易く奇闘なり難し空想に偏する者は目前の山河郊野に無数の好題圏あるを忘れて管ガに暗中を摸索するの傾向にあり写実に偏する者は古代の事物隔地の景色に無二の新意匠あるを忘れて目前の小天地に腸蹄するの弊害あり(中略)

空想と写実を合同して一種の非空非実の大文学を製出せざるべからず空想に偏僻し写実に拘もと泥する者は固より其至る者に非ざるなり(俳諧大要)


また、子規の芭蕉硯についても様ざまな誤解があるが、斎藤茂吉の指摘が正しいとしてよいであろう。


子規は俳人として芭蕉をばやはり第一位に置いてゐたことは彼の文章が其を証してゐる。ただ一たぴは俗宗匠の豪を啓かむがために、二たぴは蕪村を尊敬し骨に紹介せむがために芭蕉の作の一部をば従来の評価と異なる標準を以て論断したのである。『万葉以後始めて真面目の韻文を成したる者芭蕉の功亦大なり回『深く天然を研究したるは実に芭蕉を以て始とすべし。其活眼実に驚くに堪へたる者あり甘(松薙玉液)『芭蕉が創造の功は俳諧史上特筆すべきま者たること論を埃たず。此点に於て何人か能く之に凌駕せん。芭蕉の俳句は変化多き処に於て、雄揮なる処に於て、高雅なる処に於て、俳句界中第一流の人たるを得。此の俳句は其割業の功より得たる名誉を加へて無上の賞讃を博したけれども、余よつ見れば其賞讃は俳句の価値に対して過分の賞讃たるを認めざるを得ず。諦するにも堪へぬ芭蕉の俳句をュ杜釈して勿体つける俳人あれば、縁もゆかつも無き句を刻して芭蕉塚と称へ之を尊ぷ俗人もありて、芭蕉といぷ名は徹頭徹尾尊敬の意味を表したる中に、咳唾珠を成し句々吟誦するに堪へながら、世人は之を知らず、宗匠は之を尊ばず、百年間空しく瓦礫と共に埋められて光彩を放つを得ざりし者を蕪村とす』(俳人蕪村)等を見れば、その趣が分かるのである。(正岡子規)


子規の俳句観は、芭蕉のものと、それはど隔たっていたわけではない。芭蕉と子規の二人が、造化について語った文を比べてみると、その点が明らかになるであろう。

芭蕉は、「笈の小文」で、


風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。見る処、花にあらずといぷことなし、おもぷ所、月にあらずといぷ事なし。像花にあらざる時は夷次にひとし。心花にあらざる時は鳴局獣に類ス。夷秋を出、鳥獣を離れて、造化にしたがひ造化にかへれとなり。


と言い、子規は、「病林六尺」で次のように一言っているのである。


草花の一枝を枕元に置いて、それを正直に写生して居ると造化の秘密が段々分って来る気がする。


したがって、子規の写生論は、芭蕉を否定するものではなく、当時の月並俳句を打破する俳句革新の原動力となるために必要となったのである。そのことを、次の文が、はっきりと説明してくれているので引用しよう。


マチスは何といつても写実から出発しています。そしてその写実が次第に単純化ざれて行つたものです。ところが日本の墨絵はこんな過程は辿つて居りません。私の小学校の時の図画がまだそうだつたのですが、それは全部、お手本の模写でした。日本画の稽古は、今でもそうかどうか知りませんが、所謂四君子、梅とか竹とか蘭とか菊とかいうものの運筆から初まります。マンネリズムの最も純粋な形態です。こんなのは世界中でも珍らしい事と思われますが、一体に日本の芸術にはこの方法が多い様に思われます。西洋では、芸術家答人が自分から出発します。ところが日本では、先生の達した様式を習得することから初めます。浮世絵などでも、先生の成功した絵が、弟子達により、くりかえしくりかえし描かれて居るのを見ます。これでは、その様式が少しづ、洗練ざれる事はあつたとしても、創作ということはすつかり殺ざれてしまいます。マンネリズムは、日本の芸術の致命的な運命です。このマンネリズムから写実へ帰つたのが革新です。

牡丹散つて打ちかさなりぬ二三片 蕪村

 鶏頭の十四五本もありぬべし 子規

これは写実へ帰つたものであり、俳句の革新であつたわけです。私達の俳句は絶対にマンネリズムを避け、私達目身から出発したものでなければなりません。(川本臥風「いたどり選後開話」昭26・6)


3俳句のリアリズム


子規に始まる近代俳句の歴史は、子規の写生論を起点とするリアリズムの歴史であったといっても遇言ではあるまい。しかし、俳句のリアリズムは、ョーロッパ文芸のリアリズムとは、本質的に違ったものであるということに、まず気づかねばならないであろう。『現代俳句辞典』(角川書店)におけるリアリズム解釈は、こうである。


文芸上のリアリズムとは、作者の空想や主観をしりぞけ、自然・事物・人間の真実を思実に再現しようとするもので、ロマン派の理想主義に対立する。十九廿紀後半、科学と実証主義の伸展に伴って、まずフランスに起こり、他の諸国に及んだ芸術思潮である。リアリズムが近代俳句に導入されたのは明治一二十年前後で、正岡子規が俳句の方法として「写生」をとなえだしたあたりから始まる。子規の提噌した「写生」は、高浜虚子によって「客観写生」という形で継承ざれ、虚子のもとを去った水原秋桜子は「目然の真と文芸上の真」で写生の次元を高めた。山日誓子の「写生構成」説もリアリズムに立脚した俳句の新しい方法として注目される。加藤枇郵は「真実感合」をとなえ、写生をひとつの人間の生き方にまでもってゆく態度をとる。金子兜太の「造型俳句論」、沢木欣一の「即境俳句論」などもリアリズム精神の主張といえる。(富囲直治) ヨーロッパのリアリズムは、まず十九世紀のフランスから始まり、次第にョーロッパに拡がっていった文芸思潮であって、十九甘紀後半の科学の発展と、実証主義の拾頭によってうながされたロマン主義の次の時代の動きなのである◇一方、俳句のリアリズムは、科学や哲学と無縁であって、月並のマンネリズムを否定するために生まれた俳句革新の運動である。この両者のリアリズムの本質的な違いは、また、小説と俳句の違いに関することでもある。ョーロッバのリアリズムは、小説の発達をうながし、文去における文明批評や社会批判といった新しい一面を開拓することができたのである。目本の俳句のリアリズムは、文明批評や社会批判に向かうことがなく、自然や物にあくまでも即していこうナ)するのである。その点、子規の写生は、芭蕉の考えと本質的には、それほど違っているとは思われない。


 草花の一枝を枕元に置いて、それを正直に写生して居ると造化の秘密が段々分って来るやうな気がする。(病淋六尺)


と、子規が言っているのは、


松の事は松に習ヘ、竹の事は竹に習ヘ(三冊子)


と、芭蕉が弟子に語っているのと本質的には、同じであり、また、時宗の祖として知られている捨聖一遍上人が、次のように語っているのと同しであろう。


華の事は華にとヘ、紫雲の事は紫雲にとヘ、一遍はしらず(一遍上人語録)


子規のリアリズムの本質を探っていけば、それは、結局日本人の古くからある思惟方法と、全く同じものであると気づくことができるであろう。つまり、『比較思想論』というユニークで綿密な業績をなしとげだ中村元氏が言っている「与えられた現実の容認」ということなのである。それを、中村元氏は、日本人の思惟方法の第一の特徴にあげている。


まず第一の特徴は、「与えられた現実の容認」ということです。われわれは与えられた現実の中で生きている、それをそのまま認めるという観念です。このテーマのもとに、いろいろまたサプタイトルをつけることができて、特徴がいくつかあげられます。そのうちの一つとして、まず「現象界における絶対者の把提」があります。絶対のものはどこにあるか。西アジアの宗教や西洋の思想においては、人間を離れたかなたにそれを求めようとします。神と人との間には絶対の断絶があるわけです。ところが日本の場合には、絶対のものを現象界の内においてとらえようとする。その考え方はすでに古神道に見られます。たとえば山があればその山を御神体として拝み、川があれば、川の神をあがめる。木には神が宿ると考え、石にさえも神がましますという。謡曲にも例があります。


いずくにか神の宿らぬ影ならん。嶺も、尾の上も、松杉も、山、河、海、村、野田、残るかたなく神のます。

こういう考え方がわれわれの中にずっと続いているわけです。


この日本的な「現実容認」は、また、仏教の方でいう「即身成仏」とか、「人々無量寿所遇皆極楽」とか一言っているのと、根本のところでは同しであろう。これらはすべて、単なる理想主義や主観主義を否定しており、仏教の論理「色即是空しで支えられているものである。現実の世界にこそ真実がある、とする考えであり、真実は、他ならぬ現実の世界に見ることができる、とする態度なのである。

俳句がリアリズムの文学であるとするならば、それは、ョーロッパの社会的実証主義的リアリズムとは違い、俗世間を抜け切ったところのリアルな(現実でありかつ真実である)廿界、つまリ、個人の、目由でひろぴろとした内面における真実(リアリティー)を詠いあげるものなのである。俳句は、詩人の心の真実を、つまり、客観化された主観の世界であり、かつ主観となった客観の甘界である詩人の心の真実を詠いあげるものなのである。


旅に病んで夢は枯野をかけ廻る 芭蕉

鶏頭の十四五本もありぬべし 子規

蝶飛べりむかしの時間かも知れず 臥風