玉貫寛と図子英雄の小説に共通する良さといえば、文章に油断がないことで
あろう。小説は、何よりも文章が良くなければ読むに耐えない。正しくは文体が
あるか、ないか、ということである。これは、玉貫寛は俳句から始まっていて、
図子英雄は現代詩から始まっている、という文章修練による文体と思われる。
玉貫寛(たまき・かん)、本名・真幸(まさき)、大正五年(1916)二月、佐賀
県小城町に生まれる。松山第一小学、松山中学、松山高校を経て、京都大学医学
部卒業。外科医となる。俳人にして小説家。昭和四十三年、第十九回天狼賞受賞
、昭和五十四年、「蘭の跡」が第八十一回芥川賞候補となる。昭和六十年(1985)
松山にて死去。 玉貫寛遺作集『名号』は、夫人玉貫陽子編によるもので、「あ
とがき」でその刊行の経緯について語る。
これで、玉貫寛の十冊の本が書棚に並びます。休むことなく、自己を表現し
つづけた人でした。私にもそれを求めましたけれど、その才がありません。三回
忌の六十二年、子規記念博物館にて遺品展を催した時のカタログ『玉貫寛の足跡
』と『名号』を編んだ事を以って、責を果したいと思っています。
短篇小説「名号」は、昭和五十二年の作で、玉貫寛遺作集に収録されている
。その冒頭の文は、紛れもなく玉貫寛の文体で、俳人としての感性に恵まれ、ま
た明晰でもある。やや控えめなのも読み手には快い。
空が青く透き徹っていて家の中がひんやりと暗い、そんな十月下旬のある日
、戸倉ゆずが、訪れてきた。久し振りだな、というわたしに、ゆずは、きょうで
十五歳になりました、 といった。半ば真面目に半ばおどけて、丸い目をことさ
らに見開くので、瞼にひき吊った皺が出る。胃の手術から十五年 たったという
だけあって、この女も年をとった。六十五、六歳は、争えないところだ。
図子英雄(ずし・ひでお)は、昭和八年(1933)三月二十一日西条に生まれ、
松山在住の詩人にして小説家。昭和六十三年(1988)、「カワセミ」で第十九回新
潮新人賞受賞、芥川賞候補ともなる。 図子英雄が文壇で注目されるのは、主宰
誌「原点」創刊号に発表した「闇の下で」からである。この短篇は、眼の手術と
いう自らの体験に基づくもので、そのリアリティーには、凄味さえ感じる。文学
界同人雑誌評のベスト5に入り、朝日新聞、毎日新聞の同人雑誌評でも好評であ
った。このテーマは、すでに現代詩でも書かれ、その詩は、雑誌「詩学」でも取
り上げられた秀作である。
玉貫寛と図子英雄に共通する良さは、その鍛え上げられた文章に違いないが
、玉貫寛の癌、図子英雄の眼底出血という自らの体験が生々しく小説の中に引用
されている存在のリアリティーを見逃してはならない。それが読み手に感動を与
える。 図子英雄の代表作は、翡翠に心を寄せる少年を描いた「カワセミ」であ
るが、これはまた、作者の少年時代の世界を描いたものでもあろう。四国の石鎚
山麓の風景が美しく描かれている。それは、ノーベル賞受賞作家の大江健三郎の
作品の背景となった四国の風土と同じものである。 「カワセミ」冒頭の文章は
、こうである。
川の窪みに素足を踏み入れた瞬間、右の足裏がチカッとした。冷たい光が匕
首のようにきらめいて、川底を斜めに縫いはしった感じだった。ついで、刺すよ
うな痛みが来た。
道夫はいそいで川から出て、岸の洗濯場に上がった。案の定、足裏から血が
噴き出している。草刈り鎌の刃先より鋭い 、割れた一升瓶のかけらで、足裏を
切ったのだ。血が止まらず、爪先をあげると血の泡が濡れた足のくるぶしのほう
まで 溢れてくるため、傷口を確かめる余裕はない。不快な痛みに歯をくいしば
って、ゴム草履を片手に持ち、素足のまま家へ走った。
そして、カワセミの飛翔を表現した文章は、紛れもなく文学としての詩であ
る。
顔をあげた刹那、チィーッとちいさな鳴き声がして、巣穴から翡翠の炎が閃
きでた。研ぎすました鉈で、青竹を一気に 断ち割ってゆくような鮮烈な羽搏き
だった。
玉貫寛の主宰誌「文脈」は、高市俊次が引き継いで第一二六号を数え、図子
英雄の主宰誌「原点」は、創刊三十周年、第六三号を数えた。これらの同人雑誌
が息長く愛媛の文学を育ててくれることに間違いない。