書に耽り故国の霧の濃さ浮かぶ ワルツォック
この句は、俳誌「いたどり」に発表ざれたものであるが、選者の川本臥風先生は、次のような評を述べている。
ワルツォックさんには余り接触もせず、句の方の事も知らなかったので、今度の投句にはびっくりしてしまいました。この人は、愛大の独逸語の先生なのですが、こんなにも日本語に、とりわけむつかしい俳句に入って行った事は実に驚嘆すべき事です。(「いたどり」昭和53年l月号)
カールハインツ・ワルツォック(Karlheinz Walzock)博士は、一九四七年十月七日西ドイツのハノーファーに生まれ、一九七五年二月ボーフム大学で博士号を得た。いわゆる日本学の研究者で、漱石と写生文作家との関係についての論文(DIE BEZIEHUNGEN NATSUME SOSEKIS ZUM KREIS DER SHASEIBUN-SCHRIFTSTELLER)を書きあげたのである。その年の十月には来日し、それ以来松山の愛媛大学でドイツ語を教えている。俳句を作りはしめたのは、まだ故国のドイツにいたときで、その目的は、日本語の学習に あったとのことである。ドイツで作られた初期の俳句は、
路端に寒く死にたる鼠かな
愁をば吹き飛ばざむや雪嵐
咳噺や木に残りたる一つの葉
学間の真を尽して秋近し
といったもので、冒頭にあげた日本での句とはずいぷん違っている。まず第一に指摘できるのは、松山に滞在するようになって日本語という言葉の柔軟ざを身につけ、自分の気持を目本語の俳句でもって表現することを覚えたということである。彼自身の作句の目的は、おそらく日本を知ることであると思われるが、日本における彼の自己表現には、俳句が最もすばらしく、それ以上のものはあり得ないであろう。ドイツ人が、日本語の俳句で見事に自分の心を表現しているのである。このような例を私は他に知らないのである。
ワルツォックさんの俳句は、誰かに教えられたものではなく、自分ひとりで覚えたものである。その秘密を明かしてくれるのに、漱石について書かれたドイツ文の博士論文がある。いわゆる子規の写生論によって指導ざれた虚子等の文章家グループと漱石との関係を論じたものであり、近代日本文学を代表する作家漱石が生まれるに至った土壌を解明しているのである。そのなかで特に私の興味を引いたのは、第三章の「写生文の、禅仏教と俳句詩と自然主義との関係」である。この章では、「草枕」と、虚子の短編小説集「鶏頭」のために書かれた序文が重要な役割を荷ない、ワルツォックさんの俳句観をつくりあげているものと思われる。漱石をめぐる禅と俳句と写生文との関わりが、彼自身の俳句観をつくりあげているのである。漱石の「余裕」とか「非人情」とか「則天去私」とかいった精神的態度は、禅からきており、それが行動に移ざれ現実化ざれると、俳句とか写生文とかになると言っている。ワルツォックさんの俳句観は、漱石研究によって正当なものとなり、その俳句観に裏打ちざれている俳句の実作は、並の日本人をしのぐものとなったのである。ワルツォックさんは、来日して急に俳句が作れなくなった。ドイツにいてドイッ語の生活のなかで作っていた日本語の俳句が、日本ではできないという奇妙な現象が起きたのである。これは、言葉の問題ではなく季節感の違いから生じたものであった。日本の李節にとまどったのである。来日二年ともなれば日本の李節にも慣れ、季節の移り変わりを知的にではなく肌で覚え込むようになるのである。李節と自分の心とがうまく噛み合って素晴らしい俳句が生まれてきた。冒頭に紹介した「故国」の句をはじめ、一連の次の句が発表されるようになったのである。
病臥して小春の徴風頸掠む
屑籠を空けて蜜柑の皮匂ふ
鎖鳴り枯木の庭に大吠えず
夕食す入り日目を射て寒き部屋
髪を剃り水の冷たさ吾が孤独
シリウスの眠き目を射し清き寒
ワルッォック博士の俳句の特徴は、その一端をすでに述べたが、写生の基本をふまえながら自分の心を表現していることであり、自分の心の内面を深く追求しつづけていることである。そういった意味で、彼の代表句として躊躇することなく次の句を取りあげることができる。
冬社生ける物ただ鳩と吾
心まだ病む今日柘榴の最初の花
ヨガやりて眼を閉ぢこの世風鈴ばかり
その他に次のような句を発表しており、これらは、並の日本人には決して真似のできない俳句である。
臘燭のゆるぎ降雨のクリスマス
水面の陽のみ流れず春の川
黄なる蝶死にて羽ばたき春風に
夏の雨止みたる清さ今日夜空に
夕風やタイルに映る陽の赤熱
前燈や蜘妹の囲闇に小宇宙
悪夢覚めこほろぎの声この世の音
涼風の腰へ吹き世に悩む朝
モーツァルト聴いて窓かラス迄燕来ぬ
仙人掌の蕾開けるネオンの夜
鳴く蟾や呼ぴゐる君と吾の名まへ
今日入らぬ団扇強風に床へ落ちぬ
偲ぴゐる恋や五月雨降る夜中
五月雨の音とショパンは混りけり
潅ぐ水仙人掌の花の黄にきらめく