俳句と私/志賀たいじ

 ○俳句との出会い-水煙との出会い
 何事も三日坊主で長続きせず、およそ文学芸術には縁のない人生を送って来た私が今俳句にはまってるなど、阿吽の筈の家内でさえ、まだ半信半疑でいるかも知れないのです。俳句を語る程の句歴を持ちあわせていない私なので、先生からのお勧めの「俳句と私」に何を語れば良いのかと自問しながら、思うがまま、あるがままを記したいと思います。
 「俳句と私」は、2003年の夏に遡る水煙との出会いそのものが私と俳句の出会いなのです。この2年にも足らぬ月日は人生75年の私の余生への転換を齎す時間になりました。ささやかな家業一筋から一転廃業の道を選択したものの、身の処す術のなく、家庭の粗大ゴミにならぬための生涯学習を求めていた矢先でした。たまたま、旧取引先の知人から「じゃこ天」を送って頂き、久方振りに舌鼓を打ったのですが、商用で訪れた宇和島でのじゃこ天の忘れられぬ思い出と取引先の方の俳句談義に聞き惚れた記憶が蘇りました。その時から私は俳句の土壌は愛媛に根付いた文化との認識を強くしていました。幸いパソコンには早くから馴染んで居ましたので、ネット上で四国愛媛の方で俳句をお教え願える先生が居ないだろうかと検索中に、偶然に水煙に巡り合う幸運に恵まれたのです。勿論、季語も、歳時記も未知のイロハからのスタ−トです。信之・正子両先生にとっては手足纏いな初心者だったと思います。文学的な素養もなく、創作の感性も貧弱なため、表現の言語不足で感情だけが先行し、中々先生の言われる写生の出来ぬ句をずっと根気よく今日に至るご指導頂いて居ります。今日のひとつ学んだことが、明日の喜びを積み上げる毎日です。

 ○本質を見極める目を養う教え
 私は前述の様に家業として食品製造してまいりましたが、本物を正直に、誤魔化し物は作ってはならぬ、常に本物を見分ける目を持てと言うのが先代の口癖でした。最近の食品は添加物とか、本筋を外れた改良剤等を使った見た目の食べ物作りが大変多く、誠実なまともな食べ物作りが中々陽に当たらずに居りますが、本質を見つめる事の大切さは何事にも、或いは俳句にも相通じるものがあると最近感ずる様になりました。先生は生活がしっかりしないと良い俳句は作れないとも言われますし、楽しみの句を作るのではなく、句を作って楽しみなさいとも言はれますが、その意味が少しずつ理解出来る様になった気も致します。自分なりに、まだ芽生えるに至らぬまでも、私の俳句の中に小さな根が出始めたかなと自負し始めて居ますが、少々的の外れた思い上がりでしょうか。

 ○高齢者の生涯学習としてのITと俳句
 高齢化社会を迎え生涯学習センタ−が全国津々浦々に設けられて久しくなりますが、ソフト面で何に取り組み生涯学習とするかは、千差万別で、内容に乏しいのが現状です。高橋信之・正子両先生がNPOを立ち上げられたのも、ITの普及と俳句との理想的融合の高邁な思想を、今までも、多難を乗り越え実践されて来た先生の情熱に基づくものに外ならないと感じています。 NPOの取組みが先生の理想の実現に近づくことを願ってやみません。
   私にとって日々の水煙即俳句とパソコンは、操作と思考から脳によい刺激を受け、喜びを味合うことで、リラックスによる適度の精神高揚は、血液循環を、また吟行に出掛けることの運動と自然に触れ合う精神的なゆとりなど、これからの高齢生活者には最も相応しい日常学習の一つと自認しています。
 私自身、厳しくも心やさしい両先生とネットだけで接する日々、また心温かい句友に支えられての時々ですが、充実した暮しに感謝しています。この先細く長く、明るく、水煙俳句を続けることが出来ます様に、そして願わくばその輪が広げる機会に結びつけばと念じています。 (2005.4.11)


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