▼俳句雑誌「水煙」の秀句
1997/
1998/
1999/
2000/
2001/
▼俳句日記
■高橋信之俳論抄■
●文化の多様性
●芭蕉の一句
●俳句を読む/
心境/
俳句を習う
●生命力/
励ましと癒し/
生活の詩/
生きいきと/
よい生活/
明るくて深いもの
●歳時記/
俳句の約束事/
有季定型/
季感/
17字音のリズム
●世界の俳句/
吟行/
俳句の写生/
私意を離れ/
感動/
俳句は詩である
●本質的/
主体性/
俳句の真実/
無法の本法/
虚と実/
匿名
●感性の共同体/
俳句仲間/
相互批評/
個と全体
●日常的な言葉/
口語俳句/
文語と口語/
俳句と短歌/
俳句と川柳
【文化の多様性】 「朝日新聞/ 2001年11月5日」の「天声人語」は、「きのうは ユネスコ憲章記念日だった。」とし、「それに先立つ総会では 「文化の多様性」を尊重する宣言が採択され、この「多様性」 こそが人類の共有財産であることがうたわれた。」と書くが、 ユネスコにはアメリカが加盟していない。 「水煙」では、既に第3号(1983年12月号)の「川本臥風俳論抄 」で「文化の多様性」を取り上げている。 <文化において大切な事は画一性ではなくて、多様性である。 「世界の富とは、世界の持つ独創的な人間を指しているのであ って、その存在、活動によって初めて世界は世界であり混沌で なくなって来る。」こんな意味の事をカーライルは言って居る が、この見方からすれば、俳句が独自な存在であればある丈け 、その存在を尊重し、世界に向って主張する事こそ、文化国家 として、世界文化に寄与せんとする意図にそうものであろう。> (2001/11/5)
【芭蕉の一句】 閑さや岩にしみいる蝉の声 俗を離れた静寂の境地。これほど物の本源深くを詠んだ句は芭蕉以前にも以 後にもないであろう。(2001/6/24)
【俳句を読む】俳句を読む、という行為は、その句の作者と同じ心境になら なければ、難しくなります。その句の本当の理解ができないということです。 同じ心境になるには、作者の置かれた環境と同じものを想像し、そこに、読 み手は身を置かなければなりませんので、それなりの努力が要ります。それ なりの時間も掛かります。俳句を読む、ということは、批評、批判とは別の 行為と考えた方が良いのです。(2000/7/23) 【心境】短歌や俳句での意味内容は、理屈になりますので、短歌では、言葉 のリズム、俳句では、句の姿、つまり作者の心境を読み取ることが重要です 。そして、心境というものは、その人の心境と同じレベルに達していなけれ ば、理解できませんので、厄介です。(2000/7/16) 【俳句を習う】俳句を習うには、まず読書からです。歳時記や句集にたくさ んの俳句が載っています。それらの俳句をていねいに読むことから始めてく ださい。俳句を理解し習うには、たくさんの俳句を何度もくりかえし読むこ とから始めましょう。「習うより慣れろ」ということざわがあるように、人 から教わるよりも何度もやってみて、身につけてしまうことがたいせつです。 (2000/5/14)
【生命力】俳句に力を与えたいものだと思っていますが、力は、何よりも生 命力といった形をとって現れてきます。生命力は、持続力でもありますが、 誕生の新鮮さ、生きのよさが大切です。(2000/6/25) 【励ましと癒し】俳句の大きな課題は、現代社会において力を持つことがで きるか、励ましや癒しの働きがあるか、ということであろうと思う。人類の 救済のない文学は真の文学とは言えない、ということでもあろうかと思う。 (2000/2/20) 【生活の詩】詩のある生活は、生き生きとしています。俳句は、世界でもっ とも短い詩です。それは古めかしいのもではなく、誰でも自分自身の驚きや 喜びをすなおに表現できるものです。(2000/1/23) 【生きいきと】俳句は、人間の心を表現する詩で、何よりも新鮮で、生きい きとしたものでなければなりません。精神が沈滞しますと、句に勢いがなく なってしまいますので、日常的に内面生活を溌剌としたものにするべく、精 進しなければならないでしょう。年が明けました。2000年の新らしい年 です。生きいきとして、日々お過ごしください。(2000/1/2) 【よい生活】よい生活を、ということを心がけていただきたい、と願ってい ます。私が取りあげた「生活」は、消費生活といったものよりは、創造や生 産活動にしっかりと根をおろしているものです。芸術や文化の活動は、やは り作者個人の心の奥へどんどん入ってゆくものなので、それだけに社会との つながりが希薄になりがちです。それを補うために、個人の生活が生産活動 にしっかりと根ざしていなければならないと思います。(1999/10/31) 【明るくて深いもの】私の俳句の目指すところは、「明るくて深いもの」と いってよいでしょう。現代文学は暗すぎますので、もっと明るくなった方が よいと思います。もちろん赤ん坊や幼児の深みのない明るさではなく、長い 修練を経てはじめて身に付いた「深みのある明るさ」を求めています。10 年ほど前の朝日新聞論壇時評で社会学者の見田宗介氏がこれまでの思想や文 学には、「明るくて深い」ものは、なかったという結論を出していますが、 その後の10年も同じ状況が続いていますので、「明るくて深いもの」は、 これからの文学の重要な課題となることでしょう。(1999/11/21)
【歳時記】歳時記は、俳句の季語を集め、解説をつけた書物です。それぞれ の季語に例句をあげていますので、実際に俳句をつくるときには、とても役 に立ちます。俳句をつくりに出かけるときなどは、持ち運びに便利な小型の 歳時記を持って行くとよいでしょう。歳時記は、編者の考えや意図によって さまざまなものが出版されていますが、それぞれの特徴をよく知って使えば 、何冊あってもよいものです。俳句についての幅広い知識が得られるでしょ う。歳時記を開いて、その中の季語、解説、そして例句をひとつひとつ、て いねいに読んでいきますと、俳句が何であるかがよくわかってきます。日本 の風土や日本人の生活、そして日本人が長い間、育ててきた日本の文化がよ くわかってくるでしょう。(2000/6/4) 【俳句の約束事】 感動が俳句の言葉を生んで、一句が出来上がりますと、 必ずその俳句を読んでくれる読者が現れ、そこに人間としてのつながりがで きます。すると、そこには、約束事が必要になり、それが季語と17字音な のです。独り善がりにならないための約束事なのです。(2000/1/30) 【有季定型】インターネット上の俳句は、言葉だけの世界ですので、コメン トは、厳しい調子になりますが、私たちの俳句は、レベルの高いものです。 ただ、思わぬ落とし穴として、基本の訓練の不足を指摘しておきます。つま り、有季定型の訓練です。季感と575の訓練です。575と切れ字とは区 別してください。575は、言葉の切れよりも、イメージや意味の上での切 れをはっきりさせてください。とは言っても、先ずは楽しく俳句を作ること です。インターネットの性質上、事を急ぎがちですが、俳句は、細く長く続 けて、俳句を楽しくしなれば、長続きはしません。そして、長続きしなけれ ば、俳句を理解することができません。(1999/12/26) 【季感】無季の句を否定するわけではありませんが、本当に良い句には、季 が自然に入ってくるものだと考えています。ただ、季語というものを歳時記 の中から形式的に取り出し、自分の句の中に無感動に取り入れるべきではな いと思います。季語がいわゆる「感じられた季」であるかどうか、が重要な ことでしょう。生活の中で季節を感じる取ることです。季題よりも季語、季 語よりも季感が問題なのです。(1999/11/28) 【17字音のリズム】俳句は詩であるので、リズムはどうしても欠かすこと ができない。俳句が世界でもユニークな詩であると認められているのは、5 −7−5という短いリズムがあるからで、短いということは、多くの言葉を 使えませんので、心の外へではなく、心の奥へと入っていかざるを得ない。 「季語・季感」と「17字音のリズム」という俳句の約束事は、じつは形式 的なことよりも、境地や気持ちといった、もっと深いところのものを表現す るのに大切なのである。といっても、まずは明るく楽しく俳句をつくるのが よい。(1999/12/5)
【世界の俳句】俳句の約束事には、季語と17字音の他に、切字を取り上げ ることがありますが、初心者は、この切字にはあまりこだわらない方がよい でしょう。古い約束事にがんじがらめになって、自分の未来を見失ってしま うことがあるからです。俳句は未来へ向かって、明るく、ひろびろとした世 界を私たちに見せてくれます。口語俳句の未知の可能性、外国語俳句の爆発 的普及、インターネット俳句の魅力、どれを取っても私たちをうきうきさせ てくれる俳句の未来なのです。俳句の良さは、伝統を引き継いでいますので 、深く、未来へ向かっていますので、明るいのです。これはまた、日本の良 さでもあるので、多くの人達に知っていただきたいと願っています。若い人 たちにも外国の人たちにも知っていただきたいのです。(2000/5/28) 【吟行】 吟行は、聞き慣れない言葉ですが、詩歌や俳句をつくるために出 かけること、吟じながら歩いて行くことです。子どもの頃の楽しい遠足気分 になれます。吟行の狙いは、戸外でのスケッチで、写生が基本です。俳句は 短いので、理屈なしに楽しむことが大切です。まず、写生から始めましょう 。(2000/5/21) 【俳句の写生】子規の写生は、芭蕉の考えとそれほど違っているとは思わ れない。<草花の一枝を枕元に置いて、それを正直に写生して居ると造化の 秘密が段々分って来るやうな気がする。>(病淋六尺/子規)と、<松の事は 松に習ヘ、竹の事は竹に習ヘ>(三冊子/芭蕉)とは、本質的には、同じであ り、また、時宗の祖として知られている捨聖一遍上人が、次のように語って いるのと同しであろう。<華の事は華にとヘ、紫雲の事は紫雲にとヘ、一遍 はしらず>(一遍上人語録) 子規のリアリズムの本質を探っていけば、それは、結局日本人の古くからあ る思惟方法と、全く同じものであると気づく。つまり、『比較思想論』とい うユニークで綿密な業績をなしとげだ中村元氏が言っている「与えられた現 実の容認」ということなのである。ただ、何を、「与えられた現実」と認識 するか、によって、大きな差異が生じる。(2000/4/9) 【私意を離れ】芭蕉の言葉を弟子が記した三冊子に、「松の事は松に習へ、 竹の事は竹に習へ」とある。捨聖一遍上人の語録は、「華の事は華にとへ、 紫雲の事は紫雲にとへ、一遍はしらず」とある。一遍の心は、人から人へ語 り継がれ、いつのまにか芭蕉に伝わったのかもしれない。いずれも、私意を 離れ、私を捨てた世界である。(2000/3/26) 【感動】俳句は詩であると思っているが、この場合の「詩」は、日本の伝統 詩である「俳句」を解体しょうと試みる「現代詩」のことではない。もっと 気楽な「詩」で、俳句が詩であることによって、俳句の「有季定型」をもっ とゆるやかなものにし、何よりも作者自身の「感動」を第一義的なものとす る。有季定型という俳句形式は、第二義的なものなのである。(2000/5/7) 【俳句は詩である】俳句を問われるならば、私は、即座に、俳句は詩である と答える。この単純明快な回答を現俳壇は好まない。マスメディアも喜ばな い。(2000/4/30)
【本質的】より本質的に、ということを心がけていただきたい、と願ってい ます。作句する場合、名利にとらわれて、そこを見失ってはなりません。俗 世間の名利とは関わりのない人間本来の美しい感情を持ちたいものです。( 1999/10/24) 【主体性】芸術や文学の分野では、やはり、個性が重んじられ、独創的なも のを育て上げていくのが本筋だと思いますが、独創的だといわれるものには 、無理をしているものが多いようで、本物ではなく、まやかし物が持て囃さ れています。俳句では、独創性というよりも、主体性を問題にすべきでしょ う。(1999/11/7) 【俳句の真実】日本人の古くからある思惟方法の第一の特徴は、中村元氏に よれば、「与えられた現実の容認」ということである。この日本的な「現実 容認」は、また、仏教でいう「即身成仏」や「人々無量寿所遇皆極楽」と根 本のところでは同じであろう。これらはすべて、単なる理想主義や主観主義 を否定しており、仏教の論理「色即是空」で支えられているものである。現 実の世界にこそ真実がある、とする考えであり、真実は、他ならぬ現実の世 界に見ることができる、とする態度なのである。 俳句の写生を、この考えで理解すればよい。俳句は、俗世間を抜け切ったと ころのリアルな(現実でありかつ真実である)世界、つまリ、個人の、自由 でひろぴろとした内面における真実(リアリティー)を詠いあげるものなの である。(2000/4/23) 【無法の本法】溪仙は、「仙高フ芸術」について次のように記している。 「仙腰a尚は型の反対に自在がある。森羅万象が日々に新に又日に新に生れ 出て来る。ここが和尚の道力である。拷謔ナある。書である。詩である。歌 である。俳句である。活発に地に躍動してゐる。従って、これと云う塊が無 いから、自も他もない。」また、自らの芸術観について、「美術家は単なる 技巧家であってはならない。深い深い宇宙観とか世界観とかができてこそ芸 術観となる。」といっている。仙高ニか、溪仙とかの芸術は、その宗教的経 験から出て来た宇宙観や世界観を離れては、存在し得ないのであろう。「無 法の本法」といった「自在」の境地でもある。こういった境地の作家から生 まれた俳句が生き生きとして新鮮なのである。(2000/4/16) 【虚と実】芭蕉の言う「虚に居て実をおこなふ」とは、世間的な関係を抜け 切った自在な境地(虚)にあって、実生活を日常的に過ごしながら俳句を作 ることであり、「実に居て虚にあそぶ事はかたし」は、心が俗世間の関係を 断ち切ることができない限り、俳諧の自在な境地にあそぶのは難しいと言っ ているに違いない。芭蕉の有名な言葉「高くこころをさとりて俗に帰るべし 」も同じ心境を語っているのであろう。(2000/3/19) 【匿名】「ネット上の議論、主張からは原則として匿名を排すべきです。匿 名は身の上相談とか、ゲームとしての論争とかに限定する。/西垣通・東大教 授/朝日新聞1月4日より」匿名は、俳号とは違って、自分の存在を知られた くない、という点を認識すべきでしょう。俳人や詩人は、社会的に自分の存 在をはっきりしたものにしなければならないのです。(2000/1/9)
【日常的な言葉】芭蕉の遺語に「俳諧は平話を用ゆ」とある。平話は、当時 和歌連歌で使っていた詩的な言葉ではなく、日常的な言葉のことである。俳 諧は、俗な言葉を使用したのである。ただ一方で、「俳諧の益は俗語を正す 也。」といっているので、芭蕉の俳譜は、決して低俗な日常語ではなく、磨 き正された俗語を用いたのである。俳句は、短く簡潔であるために、平易で あり、かつ正確でなくてはならない。芭蕉のいう「平話」を用い、「俗語」 を正さなければならない。(2000/4/2) 【口語俳句】私の目指しているのは、明るくて深いところのある俳句で、現 代語的口語表現の試みです。口語俳句の歴史は、失敗の連続でしたが、今、 インターネットが普及して、口語俳句の新しい時代がやってまいりました。 書物では、効果のある文語も、インターネットでは、馴染まず、違ったもの となります。口語の良さが生かされてくるのです。インターネットと口語は 、今、生き生きしているものに相応しい、と言ってもよいでしょう。(2000/ 2/27) 【文語と口語】俳壇の主流では、文語定型、歴史的仮名づかいがかたく守ら れていますが、あまりこだわる必要はありません。文語には、ことばの安定 したリズムの良さがあり、口語には、現代語というリアルな良さがあります。 要は、自分自身のことばを追求していけばよいのです。(1999/12/12) 【俳句と短歌】俳句は、短歌の57577の575なので、似たものといえ るが、短歌の77を切り捨て、短くしたことに重きを置くと、俳句は、57 577の長きを否定したことになるので、俳句と短歌は、両立しがたい詩形 となる。俳人であり、また歌人であることが難しいのである。俳句は、写生 という絵画の世界を、短歌は、調べという音楽の世界を重視する。正岡子規 は、俳句と短歌をともによくした言えるが、その例外と見てよいであろう。 (2000/3/12) 【俳句と川柳】俳句と川柳は、ともに、17字音のリズムを約束事としてい ますので、その区別は、意外に厄介なものです。季語の有無といっても、季 語の無い俳句があり、季語の有る川柳もあります。そして、時代の流れは、 物事の境界を緩やかなものにしています。 俳句と川柳との境界も緩やかなものになってきました。俳句と川柳との違い は、作り手の心の在りようの違い、作句の対象と作り手との距離の違い、等 が重要です。俳句の作り手は、作句の対象の中に入っていきますが、川柳の 作り手は、作句の対象と明確な一線を引いています。(2000/3/5)
【感性の共同体】 マスメディアを賑わせているテーマに家庭崩壊、学級崩 壊等がありますが、国家・政府・企業等も激しく揺らいでいます。従来の共 同体が時代の流れについていけなくなった、ということです。もう一つの新 しい共同体が要求されています。こうした時代の流れの中で、俳句が力を発 揮できるか、という課題があります。インターネットと俳句でもって、感性 の新しい共同体を作り上げることができるか、という課題です。人類の救済 のない文学は真の文学とは言えない、といってもよいでしょう。(2000/2/6) 【俳句仲間】俳句は、座の文学と言われ、他のジャンルとは違った特質をも っています。「座」というのは、連歌俳諧の興行上の会席であり、またはそ の会席の連衆の意味でしたが、今では、俳句仲間といった意味で使ってよい でしょう。俳句は、他の文芸とは違い、短い詩形ということもあって、「座 」という俳句仲間を必要とし、それによって育てられてきました。俳句の「 座」は、俳句の共同体と言ってもよいでしょう。感性の共同体です。インタ ーネット上の俳句も感性の共同体を必要とします。(1999/11/14) 【相互批評】俳句仲間では、自ずから師弟関係ができますが、師弟関係は、 上から下への一方通行的なものではなく、もっとリベラルなものであってよ いと思います。古代ギリシャのギムナジウム(学園)のように、先生との討 論があってよいと思っています。世間的な身分、地位などからも開放され、 俳句の座、つまり私たち俳句仲間の純粋な詩作の、あるいは相互批評の場で ありたいと願っています。俳句による感性の共同体が生まれ、育つことを願 っています。(1999/12/19) 【個と全体】芸術や文学では、個の活動が中心となりますが、時代の流れは 、それを、難しくしています。全体が個に重たく圧し掛かっています。俳句 の座という共同体、季語と17字音という約束事、これらは、個の活動を生 き生きと働かすために必要なのです。俳句の共同体、俳句の約束事には、主 体的に取り組まなければならないでしょう。(2000/2/13)